ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

表現なのか、説明なのか? 

 

中野 翠の「小津ごのみ」(筑摩書房)という本と共に小津映画を楽しんでいる。この本はローアングルがどうとか、映画技術がうんたら・・・ということではなく、変わった切り口の本というか、非常に斬新、かつ分かりやすい小津入門書だと僕は思っている。

この本の中で著者が小津映画について語っているところで、「これってピアノ演奏と同じだ!」と感じた箇所がある。どうして往年のピアニストや歌手ばかり聴きたくなるのだろう?とても上手で文句なんか一つもないけれど、どこか楽しめない現代の多くのピアニストたちの演奏、彼女の文章が僕の「ピアニストごのみ」を代弁してくれているような気がする。少々長いが、引用してみたい。

以下引用

小津映画に親しむようになってから、多くの映画がうるさく感じられるようになった。いや、逆か。映画の多くがうるさく感じられるようになったから、小津映画に吸い寄せられたのかもしれない。ここで言う「うるさい」というのは「騒々しい」という意味ではなく「煩わしい」という意味です。悲しい場面になると、演者が悲しい顔やしぐさをして(時には鼻水まで垂らしたり、天を仰いだりまでして)、悲しいセリフを吐き、悲しい音楽が流れる・・・これでもかこれでもかとばかり、見る者を一つの感情へと、出来合いの大ざっぱな感情へと追い立てようとする。そういう映画を世間では「わかりやすい」と言うのだが、私は「うるさい」と感じる。顔を歪めるのも涙を流すのも内面吐露も切々たる音楽も50パーセントOFF、五割引くらい控えめにしてもらいたい。

子どもじゃないんだ。そんなに「ここは悲しい場面」と説明されなくても、普通の人間なら十分に察するところだろう。そもそも、どこにどう悲しみを見出すかは見る者の自由じゃないか。「喜怒哀楽」と言うけれど、実際には人間の感情はそれほどハッキリと割り切れたものではない。ほとんどつねに、悲しみも一色ではなく、おかしみの入り混じった悲しみ、怒りを帯びた悲しみ、恐怖にも似た悲しみ・・・などさまざまなニュアンスがある。これでもかこれでもか式の感情表現では、そうしたニュアンスを察して味わうことは難しい。大ざっぱで、型にはまった平板な悲しみしか伝わってこないのだ・・・などと、頭の中で演説が始まってしまうのだ。

引用終了

そうなんだよな、と思う。「上手じゃない?」「ミスもなく立派じゃない?」そう思う。見事な演奏だよね。事務処理のようにサクサク・・・というわけでもない(そのような演奏も実は多いと思うが)、一応表現のようなものもある。いや、それは「表現」なのだろうか、「説明」ではないか?「このような曲なんですよ~」というものを減点なく示されても、聴いているこちらとしては、「乗れない」のだ。音楽という翼に一緒に乗れない。演奏者は一生懸命に演奏者。聴き手はどうしたらいいのだろう?なぜにその曲を弾いているの?その理由が不明のまま、曲解説を聴かされているような気分になる。

大袈裟な演技もない。ドラマティックな音楽が壮大に流れるわけでもない。いかにもラブシーン・・・のようにカメラワークもグルグルしたりしない。セリフも最小限。でもこれは感情の「説明」ではない。感情表現なのだと思う。小津式表現・・・

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悲しい風格 

 

自分にとって身近ではない国の映画を観ると、まずはその国独自の文化、風習のようなものに目が行くと思う。そうですね、例えばブータンとかウルグアイといった国は、僕にとっては非常に遠い国なので、映画で描かれるであろう、独自性にまずは着目するだろうと思う。料理とか部屋の佇まい、登場人物の動作とかね。

小津映画にも日本独特のものがあるとは思う。おそらくハリウッド映画にはないようなもの・・・

とにかく小津映画は何も起こらないのだ。ハリウッド映画のようなドラマティック性には欠ける。ストーリーも「嫁だし物語」が多いし、僕などはストーリーはゴチャゴチャになっていたりする。だって似ている(同じ?)なんだもん。娘役は司葉子だったっけ?あれ、有馬稲子じゃなかった?・・・のように。父親役も笠智衆だったか、佐分利信だったっけ・・・と混乱してしまう。

それでも(それだからこそ?)世界共通のものを感じるのかもしれない。誰も銃で殺されるわけではない。平々凡々な生活、人生が描かれる。だからこそ感じるもの。

結婚式の後、父親は一人で帰宅する。妻は先立っている。娘との二人暮らしだった。「紀子も、もう27だ。嫁に出さねば・・・」本心からそう思っていたはずだ。娘が片づいたという安堵感はあろう。でも悲しみもある。

他人にその悲しみを語ることもない。「よかったじゃない?結婚できたんだから・・・」そう言われるだけだろうし、実際にそうなのだ。世の中にはもっと不幸な人はいるのだ。

でも、その悲しみは日本人でなくても感じるのだ。父親でなくても感じる。共通の感情なのだ。そのところが小津映画が世界で評価されるところでもあるような気がする。

「役者に泣かせなくても、悲しみの風格は出せる」  小津安二郎

この動画は「晩春」のラストシーン。小津監督は笠智衆にこのような指示を出したそうだ。「笠さん、リンゴの皮を剝き終わったら慟哭してくれ」と。

笠智衆は「オーバー嫌いの先生からそんな注文を受けたのは初めてだったので驚きました。あの場面で慟哭するのは、なんぼ考えてもおかしい」

「先生、それはできません」小津の演出に対して「できません」と言ったのは、その時が最初で最後だった。小津監督自身も慟哭に関しては迷っていたらしく、それでこのようなシーンが生まれた。

このシーンの感情は、世界共通のものと思う。娘がいなくても、父親ではなくても、生活していれば、誰でもが感じるようなこと。誰でもが持つ感情・・・それは自分の中にしまいこむしかない感情・・・

だから世界の小津・・・なのではないだろうか?

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世界共通のもの 

 

小津映画は海外での評価も高いようだ。この動画の人のように、わざわざ北鎌倉まで訪れて墓参りをする人もいる。小津映画、小津ワールドの何が異国の人たちを惹きつけるのか?

日本的なるもの?日本的情緒?現代の日本が失ってしまった古風なる日本文化を感じるのか?たとえば「ゲイシャ」「フジヤマ」のような?

僕は小津映画が好きとは言えると思うが、全部の作品を観たわけではない。「喜八もの」なんて一本も観ていないし、いわゆる小津調というものが確立された「紀子三部作」あたりから最後の作品「秋刀魚の味」までしか観ていない。

古風、たしかにそう感じるところもある。言葉遣いとか。娘が父親に対して「お父さん、奥さんお貰いになるのね?」なんて言葉、今時ないだろうと思う。何か言われて「うん」ではなく「ええ」と答えたりとか。「ええ」は死語ではないだろうが、今時「ええ」なんて答えると、「なにカマトトぶってんの?」なんて思われるかもしれない。このあたりは古風・・・かもしれない。

着物?浦野理一の着物って日本人の僕から見ても「渋いな」と思う。現実には、あのような着物って珍しい。成人式とか、妙にデレデレした重苦しい着物ばかりだし、浴衣も今はデレデレしている。現実感という点ではおかしいのだ。登場人物が全員同じ趣味・・・などということは現実にはありえない。女性の洋装(男性の洋装は凝っていると思う)も、白い襟、白いソックス、無地のワンピース、当時としても古風すぎるのではないか?ほぼ小津映画の洋装女性は「無地の女」なのだ。たまに格子柄になったりはするが、現実にはありえない。そもそも小津監督は洋物(カーテンとか)にはチェック、和物(湯吞み茶碗とか)には縦縞のような法則、美意識さえあるのではないか?

もしかしたら、日本的な独自のものに異国の人は惹かれるのではなく、人種や文化に関係なく、共通したものに惹かれるのではないか?なんとなくそう思う。表面上は、いかにも古風な日本、でもそこには悲しい風格さえ漂う。それは世界共通のもの・・・

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こだわり 

 

この動画は異国の方がアップしたもののようだ。3本の映画のシーンが集められている。「彼岸花」「お早う」「秋日和」の3本。

こうして短いシーンを寄せ集めたものを見てみると、小津監督の「赤い色」へのこだわり、執着がより分かるような気がしてくる。赤い色に限らず、小津監督が執着した、格子柄、縦縞、浦野着物のオンパレード。色だけではなく「丸」とか「菱形」のような形にもこだわりがあったのが分かる。

ここまで徹底されると、小津美意識が画面に出てくるたび、観ているこちらとしては「出たぁ・・・」と歓声をあげたくなってきてしまうほどだ。

個人的に「出たぁ・・・」と思うのが、「彼岸花」での山本富士子が着ている浦野着物。八掛が目を奪うような赤で、彼女が歩くたびに赤がチラチラと見える。効果的だなと思う。赤い着物を着せるのではないのね・・・

あとは、「秋日和」でのアパートでの母子会話シーン。司葉子も原節子も綺麗だな・・・とは思うけれど、それよりもテーブルの上に乗っている洋菓子の包み紙。コロンバン・・・だろうか?そのトリコロール柄に合わせたように、トリコロール柄のタオルが後ろにかかっている。「出たぁ・・・」


「リンゴの絵を描いていて、うまくいかないからといって、柿や桃を描き始めるようじゃダメだよ。うまくいってもいかなくても・・・。私はそういう人しか信用しない」

小津安二郎が若き頃の若尾文子に言った言葉なのだそうだ。

この言葉にも惹かれる。

「悲しい時に楽しかった日を思い出すほど悲しいことはない」 小津安二郎

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赤いヤカン式譜読み 

 

楽譜を読むって難しい。行為そのものもだが、概念が難しい。印刷された音符類を、ただ鍵盤に移して音にしていく、つまり「ドとソね、これは二拍伸ばして、ここは休符だからお休みして・・・」のようなことだけをツラツラ続けていっても音並びはできてくるけれど、曲にはならない。この部分での落ちというものは、よく「音楽性」のようなものの欠如として語られる。あたかも機械的な読譜を完了させてから、アッハーン、ウッフーンと曖昧なる音楽性というものを吹き込むというか、上書きするかのような?それが足りないからいけないのだと。

ただ音符を並べてはいけません、このことはピアノのレッスンでも指摘されることでもあり、自分でもなんとなく自覚はしている場合が多い。そこで走ってしまうのが、「アナリーゼ」というもの。楽譜にビッチリと和音記号とか、形式、主題がどうとか、書き込む。これは例えば、隠された対旋律のようなものを拾うという意味では重要だと思うし、ただの音の羅列ではなく、曲を大きく捉えるという意味で、練習の出発点ともなるようなものとも思う。では表面的なアナリーゼだけをすれば音楽的に演奏できるのか?

「楽理の本、和声の本、勉強したよ、全部調べたよ?でも音楽的というか、聴いている人の心を捉える演奏はできない」と悩んでいる人も多そうだ。

音符連なりのエネルギー、意味のようなものを感じるということなのかもしれない。ド~ラであれば、ド~ミよりもエネルギーはあるはずだし、長い音符は長いという意味があるはずだ。同じ音、音型が連続しているのであれば、エネルギーをそこで変化させず、持続するとか・・・そのようなこと。

でも、これって本からというよりは、感じることが大切のような?音符を楽譜として読むことに慣れるというか?

昔から小津映画は観ていた。でも今一つ、その魅力が分からなかった。ストーリーそのものは平々凡々としたものだ。娘を嫁に出す・・・とか、そのような話。我々凡人の方が、小津映画の登場人物、ワンシーンよりもドラマティックなのではないかとさえ思う。「どうして世界の小津・・・なのだろう?」そこのところが分からなかった。表面的に観ると、そこには何もないというか?

「もしかしたらこれは・・・」と初めて感じたのが、「彼岸花」という映画。この映画は小津映画初の総天然色、つまりカラーの映画ということになる。ここで色、特に小津監督がこだわったとされる赤い色に気づいたのだ。

赤いヤカンは無造作に畳の上に置かれている。ヤカンは台所のコンロの上にあるのが普通だ。でも赤いヤカンに物凄くインパクトを感じたのだ。洋室のカーテンは格子柄で統一されていたり、和物は縦の縞模様だったり。どの映画でもそうなのだ。そのような細部のこだわり、美意識に気づいた。

女性が着ている着物、これも統一されている。帯は必ず無地だ。すべて浦野理一という人の着物らしい。お花とか蝶々のような柄ではなく、いつも幾何学的な美を感じさせる。どの登場人物も同じような着物を着ている。現実にはありえない。でも統一感、小津の世界が広がっていく。

この動画は「彼岸花」のワンシーン。本当に日常的な一コマだ。夫婦の言い争い。言い争いとまでいかないような小さな出来事だ。まず赤いヤカンが登場している。凄くヤカンの色のインパクトを感じる。背景はすっきりしている(浦野理一の着物も含めて)。典型的なスッキリとした日本間だ。でもチラリチラリと色が見える。

「言いたいことがあったら言えばいいじゃないか?」夫の言葉に妻は夫の背広をポンと投げ、座りなおす。それまでは横向きに近いアングルで妻は座っていたのだが、ここで正面を向く。ここで浦野理一の無地の帯の色、緑が強調されるのだ。背景には妻の持ち物であろう化粧水が。それまでもこの化粧水の瓶は映っていたのだが、ここで帯と化粧水の緑が同化し、「妻」というものを存在づけるのだ。凄い・・・と思う。

言い争いのやや重い空気の中、娘が帰宅する。当時としても古風すぎるような洋装だが、赤いバックを持っている。若いから、その赤いバックを振り回したりするのだ。そこに赤いヤカン。動かないヤカンは夫婦そのもの、安定そのもの、動くバックは若さ・・・ではないだろうか?

典型的な日本間、平凡な日本間に見えるけれど、障子の欄間というのも珍しいのではないか?電燈の笠とデザイン的な一致があるのでは?これは赤という色、縦じまの小物、浦野理一の着物と同じく、小津監督の美意識であり、表面的にサッと見ると、そこまでは気づかない。表面的には小津映画は平凡なシーンの連続なのだ。

楽譜を読むということも、同じようなことなのではないか?表面的にだと、気づかないような美意識を感じ取れるようにしていく・・・

赤いヤカンの効果のように・・・

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