ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

素人考え 

 

ノーマン・カズンズの「笑いと治癒力」を再読中。もっとも、僕が持っている本は「死の淵からの生還」というタイトルだが、中身は同じものらしい。

ノーマン・カズンズは広島の名誉市民なのだそうだ。彼の碑も広島市にあるらしい。彼はジャーナリストだったので、世に知られていない、そして知られるべき事実というものをレポートし、世に紹介した。結果的に、原爆乙女の存在、現状というものを多くのアメリカ市民が知ることとなった。彼のレポートを知ったアメリカ人たちから寄付金が集まり、多くの原爆被害者のケロイドがアメリカで治療されたという。そのカズンズの功績を讃えた「名誉市民」と「碑」なのだろうと思う。

知られるべき事実を、レポートし、世に知らせるというジャーナリストとしての使命を全うしたということなのだろうが、自分自身がレポートの対象となることだってある。重篤な病を患った時が、そのような事例になるのではないかと思う。

「自分の病というものが、どのような影響を精神的にも肉体にも与えるのだろうか、そして自分は、その状況をどのように自己救済していくのだろうか?」・・・という自分を対象としたジャーナリズム精神。

カズンズは膠原病と診断された。専門医の診断では、「治る確率は五百分の一でしょう」というものだった。当然、ジャーナリストも人間だから、普通の人間が感じるような、ごく普通の感情を持ったことだろうとも思うが、でも彼はジャーナリストだったのだ。

「自己を救済するには?治らないと専門家は言うけれど、そうなのか?本当にそうなのか?」

彼の根底にあった気持ちは、「専門家(医師)の言葉に従順に従うだけでいいのか?患者にも感情や、そして何よりも考える力、知識を得る力というものはあるのだ、同じ人間なのだから・・・」というものだったように思う。

彼の著書を読めば、具体的な彼なりの自己治療法、自己救済法というものが書かれているので、ぜひ読んでみて欲しい感じだ。「ビタミンC」と、そして「ユーモア、笑い」というものが完治への扉だった。

「素人が難病を治す?」

笑う、心の底から笑う、人生を捨てずに、希望を持つということだ。また、自分という人間は価値あるものだと自己認識し、諦めないということだ。そのような気持ちになることで、身体の免疫力というものへも影響があるのではないだろうか?

カズンズの闘病記、自己救済記が「笑いと治癒力」の最初の章で、この部分は、本になる前に、ある医療雑誌に掲載された。多くの専門家(医師)がカズンズの記事を読み、励まし、驚嘆の手紙が殺到した。医師からの手紙は3000通だったそうだ。

以前に「笑いと治癒力」を読んだ時には、カズンズのジャーナリスト魂のようなものに感動した記憶があるが、今は、3000人の医師、カズンズの記事を掲載した医療雑誌の編集者に想いを馳せてしまう。

カズンズは、ジャーナリストとして、医療の知識は豊富ではあったし、医療に限らず、勉強を続けていた人ではあったけれど、所詮は「素人さん」なのだ。医師という人たちは、プライドが高そうだが、すくなくとも3000人の医師たちは「素人の分際で・・・」などとは思わなかった。

ノーマン・カズンズは自分の力で膠原病を克服した。キーワードは「笑いとユーモア」・・・

彼は、数々の名言を残している。

「人生の悲劇は死ではなく、生あるうちに自分の中で何かが死に絶えてしまうことだ」

「悲観することは時間の浪費だ」

「笑いは心のジョギング」

「人は気分がいいから笑ったり微笑んだりするんじゃないんだ。笑うから気分が良くなるんだよ・・・」

kaz

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「ハーレムの闘う本屋」 

 

ハーレムの闘う本屋ハーレムの闘う本屋
(2015/02/25)
ヴォーンダ・ミショー・ネルソン

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1939年、まだ黒人の人権などというものが皆無の時代、ニューヨークのハーレムに本屋が誕生した。本屋と言っても、最初は5冊の本しかなかった。それも行商・・・

5冊だけで始めた行商の本屋が、蔵書数22万5千の本格的な本屋にまでなった。22万・・・日本の地方都市の図書館の蔵書数並みだ。

本屋を創めたのはルイス・ミショーという人。この本はルイス・ミショー、そして彼の本屋「ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストア」の物語だ。

当時は黒人は人間として認められていなかった。「物」のような扱いを受けた。ルイス・ミショーの兄も、白人の警官に片目を潰されている。それでも何も言えなかったのだ。同じ人間ではないのだから・・・

「白人が憎い」「世の中が憎い」

ルイス・ミショーは世の中を恨むだけでは何も変わらないのではないかと思い始めた。何をすればいいのだろう?自分に何ができるのだろう?

それは「知識」ではないだろうか?自分たちにも知識が必要なのではないだろうか?

彼は本を読んでもらおうと考えた。黒人たちに本を読んで知識を得て貰おうと・・・

彼が44歳の時だ。ハーレムに本屋を誕生させた。たった5冊の本しかなかったけれど・・・

「黒人のために、黒人が書いた、アメリカだけではなく世界中の黒人について書かれた本」が彼の本屋「ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストア」には置かれていた。

「本?知識?黒人は本なんて読まないよ」「本なんて読んで世の中の何が変わるというの?」

ルイスはそのように言う黒人たちに言った。「まず店の奥で読んでください。お金はいりません。もし何かを本から感じたのであれば、どうそ買って下さい。でも、まずはどうか読んでみてください・・・」

「ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストア」は、たった5冊の本からスタートした。そして、黒人たちの「知的サロンの場」にまで発展していったのだ・・・

kaz



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「最後の授業」 

 

最後の授業 ぼくの命があるうちに (RHブックス・プラス)最後の授業 ぼくの命があるうちに (RHブックス・プラス)
(2012/09/11)
ランディ パウシュ、ジェフリー ザスロー 他

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人の一生というものと演奏というものは似ている。やり直しがきかないということ。人生の中で何度もやり直すことはできる。失敗しても修正していくことはできる。でも人生そのものは一度だけのものだ。演奏も、途中で修正することができる。むろん、弾き直しはできないが、失敗してもそこで終わりではない。でも演奏そのものは、その場では一度だけのものだ。

ランディ・パウシュの本が訳されて日本で出版されているということは知らなかった。彼の「最後の授業」がユーチューブで見られることは知っていた。ユーチューブで全米に流れ、そして彼は知られるようになったのだから。でも日本語の字幕版があるのは知らなかった。

それでも米国では有名でも、日本でランディ・パウシュのことを知っている人は、そう多くはないのではないか・・・とも思う。彼は、カーネギーメロン大学の教授で、動画は彼の授業を収録したもの。

何故「最後の授業」なのだろう?彼は肝臓癌で、腫瘍が10個もあったそうだ。医師からは、余命3~6ヶ月と宣告され、彼自身も死への準備を始めることとなった。この「最後の授業」は彼自身が、これが最後の講義であるということを自覚して話している。

ここがアメリカ的なところなのかもしれないが、深刻な暗さというものは一切ない。彼の口調も暗いものではないし、第一病気の話をしていない。自分の夢の実現の話、他人の夢の実現の手助け、そして人生について語っている。

しかしながら、「これを自分は伝えたいのだ」という強い想いを感じることができる。死を自覚すると、人は何かを伝えたくなるのだ。人生は一度きりのものだし、そしてそれは自分自身だけのものだ。だからこそ、死の直前には見えてきてしまうのだ。なんと他人の人生を生きている人が多いのだろうと・・・

分かってしまうのだ。そのような人は死の直前に、ものすごく後悔するだろうなと・・・

今、自分で大事だと感じるもの、それは社会的な地位とか、プライドとか、お金とか・・・そのようなものは、実は死の直前には何も意味を持たないのだ。多くの人はそれを自覚していない。

だから伝えたくなるのだ。

彼は、授業の最後で、この授業は学生にだけではなく、むしろ自分の幼い3人の子どもたちのために話したと語っている。

ランディ・パウシュは47歳で亡くなっている。これは死の直前、その死を自覚していた人間が残したメッセージでもある。むろん、講義であるので、1時間以上という長い動画になっているが、時間のある時に見て欲しいなと思う。

kaz



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ほどほど生活、ほどほどピアノ 

 

がんから5年―「ほどほど」がだいじがんから5年―「ほどほど」がだいじ
(2007/09)
岸本 葉子

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岸本葉子の本はよく読む。彼女は癌という病名を明らかにした。その直後は、やはり癌関係の本が目立ったようにも思う。でも、よくある闘病記のようなものとは、それらの本も異なっていたように思う。何と言ったらいいのだろうか、癌という病気の特殊性を全面に出すのではなく、誰でもが日常的に感じる、肉体的な衰えとか加齢とか、そのようなことの中のものとして癌を語っているようにも思う。そのようなところが好きだ。「癌」=「闘病」=「壮絶」=「死」という図式を皆が描きすぎるような気がする。癌患者にだって日常はあるのだ。散歩したり、旅行したり、掃除をしたり買い物をしたりね。そしてその部分がとても大切なのだ。以外と癌患者の日常を書いたエッセイは少ないのではないかと思う。重い闘病記は沢山あるけれど。

いのちの養生ごはん (中公文庫)いのちの養生ごはん (中公文庫)
(2013/06/22)
岸本 葉子

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岸本葉子の料理エッセイ(料理本)はよく参考にする。彼女の食事療法と僕のそれとは非常に似ているところがあると思う。しかし、彼女ほど厳密ではない。僕は甘いものが好きで、本来はケーキ(生クリームとかバターとか)は禁なのではあるが、でもたまにはケーキも食べたい。それもお店で買ったものを。それも人生の楽しみの一部なのだから。著者の本には、バターなどを使用しないケーキなども案内されていて、そのレシピでケーキを焼いたりすることもある。それはそれでとても楽しい。僕は重篤な病なのだからケーキぐらい我慢すれば・・・とは思わない。

俳句、はじめました俳句、はじめました
(2010/01/14)
岸本 葉子

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僕は俳句は、はじめていないけれど、ピアノは弾いている。自分としては真剣に取り組んでいると思っている。僕の病気のことは、このブログを読んでいる人は知っているところだと思うし、そのことはサークルのピアノ仲間にも知られているということにもなる。「そのような状態でも・・・ピアノ弾けるんだ?」ということを知ってもらいたいと思う。でも僕は日常的な練習記やらレッスン記、そして本番があった時でさえ、自分のピアノのことは書かない。何故か分からないけれど、書けない。「今日はサークルの練習会で、会場はどこそこで、このようなピアノで、自分の出来栄えはどうこうで、そのあとは打ち上げで・・・」のような文章が書けない。レッスンや日常の練習の様子のことも詳細に綴ったりはできない。「思っている事」「感じている事」は書けるんだけど・・・

でも、自分なりに書いていこうと思う。「ピアノ・・・癌でも弾けるのね?」と思ってくれたら嬉しい。そう、病気でも充実したピアノライフを送ることは可能だ。そしてそれを得る権利がある。

まだまだ、したいことばかり (中公文庫)まだまだ、したいことばかり (中公文庫)
(2013/03/28)
岸本葉子

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今年のピアチェーレの演奏会ではショパンを弾く。ショパンは得意ではないけれど、頑張ろうと思う。サークルの演奏会ではリストを弾く。リストも得意ではないけれど、計画できる・・・ということそのものが楽しい。海外にもレッスンに行く。これは以前から行っていたことだけれど、今年もやる。レッスンを伴わない旅行もする。

今年も桜を鑑賞できそうで、それが今は何よりも嬉しい。

僕よりも健康だけれど、生きていない人は大勢いる・・・

ところで、来年の一月から「全国がん登録」が施行される。新たに「癌」と診断された人は、年齢、名前はもちろん、病気の進行度や部位、治療法なども国に知られてしまうのだ。医療機関に国への報告の義務が生じる。データは生かされるのであろうか?正直なところ、癌患者としては、余計なお世話・・・と感じる。

kaz

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「戦場のピアニスト」その後 

 

シュピルマンの時計シュピルマンの時計
(2003/08)
クリストファー・W.A. スピルマン

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「わたしはピアニストでした・・・」

「ではピアノを弾いてください・・・」

廃墟の中で、瓦礫の中でピアノを弾くシュピルマン、ユダヤ人である彼の奏でるショパンを聴くドイツ人将校ホーゼンフェルト。映画「戦場のピアニスト」のクライマックス、最も印象に残るシーンだ。ホーゼンフェルト大尉に匿われシュピルマンは生き残るわけだが、当時はユダヤ人を助けたということが発覚しただけで、助けた者、そしてその家族まで銃殺されてしまった可能性は高かったという。それでもホーゼンフェルト大尉はシュピルマンを匿ったのだ。ホーゼンフェルト大尉は人道主義者であり、数百人ものユダヤ人を匿い、助けたのだという。そのようなドイツ人も存在したのだ。

映画の中で、ホーゼンフェルト大尉がソ連軍に捕まっているシーンがある。多くのドイツ兵が、解放後は戦争犯罪人として裁かれることになる。

「わたしは、かつてシュピルマンという人を助けました。お願いします。私を助けてください・・・」

「戦場のピアニスト」では、戦後のシュピルマンは描かれていないので、その後捕まったホーゼンフェルト大尉がどうなったのかは映画ではわからなかった。かつて自分の命を、それこそ命を懸けて救ってくれた相手にシュピルマンは何もしなかったのだろうか?ここの部分が映画では描かれていないのだ。

この本は映画の主人公、シュピルマンの息子であるクリストファー・シュピルマンが父との想い出を書いたもの。この本の中でホーゼンフェルト大尉のその後について書かれている。クリストファー・シュピルマンは日本近代政治思想史が専門で、なんと現在日本の福岡に在住しているのだそうだ。

シュピルマンは命の恩人のために何もしなかったわけではなかった。自分の命を助けてくれたドイツ将校の名前をシュピルマンは知らなかった。これは、あえて名前を訊かなかったからだ。自分がもし捕まり拷問を受けた際に、彼の名前を知っていたらあまりの苦しさに、ホーゼンフェルトという名前を言ってしまう恐れもある。なので、あえて名前は訊かなかったのだ。

戦後の1951年、ドイツからポーランドの放送局に一通の手紙が届く。

「私の夫は、今ソ連の収容所にいます。夫はかつてシュピルマンという人を助けたと申しております。そのシュピルマンとはピアニストのシュピルマンでしょうか?もしそうであれば、収容所にいる夫の助けになってほしいのです」

手紙の差出人はホーゼンフェルトとあり、その時初めてシュピルマンは命の恩人の名前を知るのだった。

シュピルマンはポーランド共産党の幹部を通してソ連側に問い合わせるが、ソ連側からの返事は「収容所には戦争犯罪人しかいない」というもので、そこから先には進めなかった。当時のソ連はスターリン時代で、それも仕方なかったように思う。どうしようもなかったのだ。しかし、ホーゼンフェルトという名前はシュピルマンの胸に刻まれただろうと思う。

1957年、まだまだ東西には鉄のカーテンが存在していたが、シュピルマンは西ドイツに演奏旅行に行けることになった。その時、シュピルマンが真っ先に訊ねたのがホーゼンフェルトの家だったという。

「ホーゼンフェルト・・・自分の命を救ってくれた人、もう一度会ってお礼を言いたい・・・」

シュピルマンはホーゼンフェルトの居場所を調査していたのだ。彼の家は西ドイツのフルダという街にあった。

「ホーゼンフェルトさんは・・・彼はソ連の収容所で亡くなりました」

ホーゼンフェルト大尉は、ソ連の収容所で心身を病んで1952年に亡くなってしまったという。

ヴィルム・ホーゼンフェルト・・・戦前は教師だった。温厚な性格で、子どもたちからも慕われていたという。

シュピルマンは息子のクリストファーにこのように言い聞かせていた。

「人間を民族で判断してはいけない。個人で判断しなさい」

何よりも「民族」という言葉をシュピルマンは嫌っていたのだそうだ。

kaz



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