ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

イグナツィの瞳 

 

パデレフスキ、パリ征服(?)後、アメリカに演奏旅行へ出ている。レパートリーが少なかったという一例が、この演奏旅行で分かる。「こんな曲・・・弾いたことない」ということがあっても、契約なので演奏しなければならない。スケジュールも相当厳しいものであったようだ。パデレフスキ自ら語っているが、この時期は一日に17時間の練習(譜読み?)をこなしていたようだ。

成功してからのパデレフスキの人気は相当なものであったらしい。専用の列車に専属の調律師、執事、コックなどが乗り込み、列車には練習用のピアノが二台も積まれた。王侯貴族の移動・・・のようであったのではないか?その様子を見物する人たちの群れ。

演奏会場でも女性の黄色い声が飛び交う。サインを求めてパデレフスキを追いかける女性たち。滞在先にも忍び込む女性がいたらしい。ある時などは「あなたの髪を下さい」とハサミを持った女性が・・・

現在の某スケート選手にみられる以上の「追っかけ」ファンの存在。クラシックのピアニストとは思えないような熱狂ぶりだ。若い頃のパデレフスキ、なんとなく今でいうところの「イケメン」であったのではないだろうか?豊かな金髪(彼の髪は有名だったようだ)、どこか影のある風貌。そのようなイケメン男性がショパンを切々と奏でる、ファンも多かったのではないかと想像する。

ヨーロッパ、特に小国を旅すると、その旅が完全に観光であっても、なんとなく感じる感覚というものはある。最初は有名な風景に「あっ写真と同じ」とか「キャッ、これ美味しい」などという反応でも、次第に「あの山のむこうには異なる文化がある、異なる言語を話す人がいるのだ」という、ある種の緊張感みたいなものを感じるようになってくる。国境というものを直に感じる瞬間とでもいうのだろうか?この感覚は日本でも北米でも感じることのできない特殊な感覚。地続きということの緊張感・・・

これは侵略、支配・・・などということの歴史を感じてしまうことなのかもしれない。ポーランドという国は大国に翻弄され続けてきた国。時には消滅さえした国。そのような憂いの国から、憂いを感じさせるポーランドのイケメンがショパンを奏でる・・・

ここにピアニスト・・・というだけではない魅力のようなものが加わったのかもしれない。

自分の国を捨ててきた人たち、捨てなければならなかった人たちに共通しているものがあるように思う。それは瞳。ある瞬間、その瞳に異様なまでの光が宿るのだ。会話をしている時、何かを考えている時、何かを見つめている時、とても強い光を感じる時がある。それは「誇り」であるように僕は思う。

パデレフスキの異様なまでの人気ぶりは、この瞳の光にあったのではないかとも感じる。

kaz




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イグナツィの冒険 

 

パデレフスキはワルシャワ音楽院を退学になっている。これには驚いた。むろん、後に復学しているが、血気盛んな青年ではあったようだ。練習室にこもり、ひたすら練習していた・・・というよりは、世の中の動向を気にし、ポーランド人としての血が騒いでいたような青年ではあった。首相になる素質(?)は若い頃よりあったのだろう。

学生時代、友人たちとロシアに演奏旅行に出ている。むろん、有力なマネージャーなど存在せず、自分たちだけで切り開いていくような冒険旅行だったようだ。友人たちが次々と脱落していく中、パデレフスキは演奏旅行を続ける。そこで無一文になり、極寒ロシアで死ぬ一歩手前まで経験したりする。

パデレフスキ、もちろん幼い頃からピアノを弾いている。ただし、その他の大ピアニストとは異なり、幼い頃から偉大な教師に導かれ、正しい教育法で神童として順調に育っていった・・・というのとは異なるようだ。彼の育った環境は極貧というわけではなかったようだが、片田舎で、周囲にはそれなりの教師しか存在しなかった・・・という背景がある。本格的なピアノ道というのは成人してレシェティツキに師事してからということになる。このあたりが普通ではないところだろう。即興名人ではあったようだ。鑑賞者としての耳がパデレフスキのピアノを育んでいったというか?優秀なピアノ少年というよりは、壮大な音楽少年だったのだ。

自然と、「ひたすら訓練してきましたっ!」というピアニスト・・・というよりは、作曲家として認められるようになっていく。若かったパデレフスキの才能を認めた人たち、アントン・ルビンシュタインやブラームスなどもピアニストとしてよりも、作曲家、音楽家として、まず認めていたようなところがある。モシュコフスキーもパデレフスキの作品を出版する際、ヘルプしたりしているようだ。レシェティツキ夫人は高名なピアニストでもあったから、パデレフスキの「メヌエット」などを盛んに人前で演奏し、彼の名前は、まず作曲家として知られていったようだ。

レシェティツキ、パデレフスキによれば、まず彼のペダリングに驚嘆している。また指のコントロールによる、百万色の音の世界への評価。でもこうも評価する。「しかし、訓練されていない・・・」と。24歳から訓練を始めるのか?蓄積は?レパートリーは?職業ピアニストは無理だろう、教える・・・それは可能だろう。師匠はパデレフスキにストラスブールの音楽院の教授職を推薦するのだ。「それが君の道だね」「遅すぎたね」と。

パデレフスキのことだから、「ああ、そうなのね」とはならなかったのだろう。当時のパデレフスキは極貧状態だったから、生活のために師匠の進路指導(?)に従うが、「俺はピアニストになる」という夢は捨てることはできなかったのだと思う。

パフォーマーとしての魅力は絶大なものだった・・・僕はそう感じる。数少ないながら残されているパデレフスキの音源を聴いてそう思う。

奇跡的なデビュー後、彼は苦しむ。「弾ける曲がもうない・・・」一晩のリサイタル分しかレパートリーを持っていなかったのだから。そこでパデレフスキは血の滲むような練習を開始することになる。譜読み地獄というか?

ブランク・・・ということを考える。または、「ピアノは子どもの頃より訓練していないと上手にはならない」とか「指は大人から始めても絶対に動くようにはならない」とか、そのような迷信を考える。むろん、パデレフスキと自分を同じように考えるわけでは、むろんないが、彼の演奏を聴いていると、そのような固い迷信が徐々に柔らかく溶けていくような気はしてくる。

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イグナツィを読む 

 

パデレフスキの自伝を読んでいる。ナイトキャップとして読んでいるので、なかなか進まない。楽譜の校訂ということで有名なピアニストで、ピアノ小品「メヌエット」の作曲者であることでも有名。「ああ、あの曲の・・・」

でもピアニストとしては、やや過小評価されているような?古い年代(?)の人なので、それだけでも「あまり聴かれない」という理由にはなるのかもしれないが、他の往年の巨匠たちと比較しても、なんだかあまり聴かれないような?

中村紘子著の「ピアニストという蛮族がいる」という本の中でも、パデレフスキは1章を割かれているが、どうも、その他登場するピアニストたちと比較すると、パデレフスキというピアニストに対しての著者の評価が、やや低めのような気もする。ホロヴィッツやラフマニノフに対しての愛情がパデレフスキには感じられないというか。

現在、一国の首相が元ピアニストだったということなんてあるだろうか?ピアノの上手な政治家はいるだろうが、ピアニストから政治家、それも首相、兼外務大臣を務めるなんていうことはあるだろうか?

また、一晩のリサイタルが大評判になり、「神が舞い降りた」などと騒がれた新人ピアニストが、実は24歳になって本格的にピアノの修行をし、レパートリーとしては、その時に弾いたプログラムしか持っていなかったなんていうことがあるだろうか?次々と舞い込むオファーに対して「どうしよう?弾ける曲なんてない」などということ、あるだろうか?ピアニストになるには、幼少の頃から厳しい訓練を受け、それなりの蓄積があるのが普通なのでは?蓄積、才能があっても光など当たらないのが普通なのに、後光差し込むほどの成功を収めた人が、実は一晩分のリサイタルのレパートリーしか持っていなかったなんて・・・

このあたりに、ピアニスト、パデレフスキ評価の要因が隠されているのでは?

実際に聴いてみるといいのだ。

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代役 

 

奇跡のピアニスト郎朗(ラン・ラン)自伝―一歩ずつ進めば夢はかなう奇跡のピアニスト郎朗(ラン・ラン)自伝―一歩ずつ進めば夢はかなう
(2008/07/23)
ラン・ラン、デイヴィッド・リッツ 他

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ラン・ランというピアニストは、どうも苦手だ。演奏の印象の前に、あの百面相が苦手。演奏そのものはいいのかもしれないが。どこか苦手意識のあるピアニストではあるが、彼の自伝(!)などを読むと、かなりの苦労人であるということが分かる。この自伝の中で印象深かったのが、カーティス音楽院時代のこと。彼はゲイリー・グラフマンに師事するわけだが、彼はコンクールにラン・ランを決して出場させなかった。オーディションを受け、ただチャンスを待つ・・・この姿勢を徹底させた。これはグラフマンがコンクール嫌いだったということよりも、ラン・ランのピアニストとしての器をグラフマンが信じたということなのではないかと思う。「彼なら絶対にチャンスがあるはずだ」と。

そして実際にそうなった。ユジャ・ワンもグラフマンの生徒だが、同じような道を歩んでいる。オーディション、そしてチャンスを待つ・・・

彼らと同じ中国からやってきた生徒にチャン・ハオチェンがいた。やはりラン・ラン、ユジャ・ワンと同様、中国では目立っていた存在で、15歳の時に渡米した。グラフマンは、チャン・ハオチェンにはコンクールを受けさせている。彼はヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した。一位を日本の辻井伸行と分け合ったので、そのような意味では日本でも知られたピアニストと言えるのかもしれない。優勝したのだから、大変おめでたいことなのだと思うが、でもこうも考えられるのではないだろうか?

グラフマンはチャン・ハオチェンという生徒はラン・ランやユジャ・ワンほどの器ではない。なので、彼にはコンクールというチャンスしか残されていないだろう・・・そのように考えたと・・・

僕がチャン・ハオチェンの立場だったら、相当傷つくかもしれない。「ああ・・・コンクールしかないのか、僕はそれだけの器だったのだ」と。このあたり、グラフマンは非常にシビアというか、アメリカ人的というか・・・

たしかにチャン・ハオチェンの演奏を聴くと、彼は、やはりラン・ラン、ユジャ・ワンではなかった・・・という印象を持ってしまうのは事実なので、グラフマンの判断は正しかったのだと思う。

思うに、最近は少しずつだが、コンクール優勝ではない経緯で有名になるピアニストも出てくるようになったような気はする。おそらく、キーシンあたりがその始まりで、ラン・ランやユジャ・ワンが活躍すればするほど、コンクールというもののかつての権威が落ちていってしまうようにも思う。別にいいと思うが・・・

コンクールの権威は落ちていると実際に思う。クライバーン・コンクール、前々回の優勝者は日本人だったので、これは多くの(日本)人が「辻井伸行」と答えられると思うが、では前回の優勝者を答えられる人はどれくらいいるというのだろう?

アンドレ・ワッツもコンクール組ではなかった。彼は青少年のためのコンサートのようなものでまず演奏した。この演奏会で演奏するためのオーディションもあったのかもしれないし、そのオーディションだってコンクールのようなものではないか・・・と言われればそうなのかもしれないが、とにかくワッツ少年は大抜擢され、リストのピアノ協奏曲を演奏した。指揮がバーンスタインでニューヨーク・フィルとの共演だ。

本当の意味でワッツ少年が注目を浴びたのは、代役によってだった。たしかグレン・グールドの代役だったと記憶している。バーンスタインが「あの少年はどうだろう?リストを見事に弾いた、あの少年・・・」と言わなかったら、ワッツ少年は世に出てこなかったかもしれない。ピアノを習う少年として終わっていたかもしれない。あるいはピアノ教師とか・・・

バーンスタインは、ただのピアノを習う少年をニューヨーク・フィルの正規の演奏会でデビューさせた。バーンスタインは一度ワッツ少年と共演していたし、ニューヨーク・フィルのメンバーもワッツ少年の鮮烈なリストを覚えていたのだろう。誰もがワッツ少年のピアニストの器を信じたのだ。

バーンスタインの直観は正しかったのだ。ただ達者に弾けるだけの天才少年っだったら抜擢しなかったのではないかと思う。しかし、ワッツ少年は違った。生まれながらに演奏に「華」があった。

ラン・ランが、長い間チャンスを待ち、そしてそのチャンスを生かし世に出ることになったのも、やはり代役だった。アンドレ・ワッツが急病になり、その代役としてラン・ランは演奏したのだ。そして世に出た。歴史を感じる瞬間だ。

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異端への恐怖 

 

翼のはえた指―評伝安川加壽子 (白水uブックス)翼のはえた指―評伝安川加壽子 (白水uブックス)
(2008/01)
青柳 いづみこ

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この本は以前に読んでいる。普通に一人のピアニストの生涯を追うという読み方もできようが、もう一つの読み方もできるように思う。それは「異質なものが入り込んだ時、既存の価値観の持ち主がどのように反応するか」というところに注目する読み方。

当時の日本のピアニスト、ピアノ教師たちの重ねてきた苦労というものは、想像ができないほど厳しいものであったに違いない。情報の少ない中、西洋音楽というものに、そして西洋文化そのものに憧れ、何もないないところから、一から必死に築き上げてきたものも多かったと思う。何時間も練習し、修業し、楽しいことも我慢してきた。それはピアノの上達のため。西洋に追いつくため。そして、ストイックとも感じられるような、日本独自の演奏、指導というものが出来上がっていった。

そこへフランスから異質なピアニズムがやってきた。

「あ・・・なにか違う・・・全然違う・・・」

すんなりと、そのフランスピアノを受け入れた人もいただろう。「あら、なんて素敵なの。これまでのピアノの演奏って何だったの?」

カルチャーショック・・・

でも、到底受け入れられなかった人達もいたのだ。「もし、あれが主流になってしまったら、私たちはどうなるの?今まで苦労して身につけてきたものは何だったの?いえ、私たちがやってきたことが正しいの。主流なの。あちらが異端なの」

人間は一人だと孤独になる。心配になる。なので、同じ価値観を持つ者同士で固まろうとする。「こちらが主流よ、私たちが正しいの。さあ、連携しましょう・・・」

子どもたちをバリバリと鍛え上げ、コンクールに出場させる。

「ピアノはこう弾くべき・・・それ以外のものなんて、ありえない・・・」

「火鉢で手を温めながら、そして手先が割れ血が出るまで練習したのよ。正しいに決まっている・・・」

当時の日本の主流派はフランスピアニズムに一種の恐怖感を抱いたのではないだろうか?「もし、あちらが主流になってしまったら?」と。なので固まった。グループになれば心強いので、○○派のようなものさえ出来上がっていった。

「この国で力を持つ前に排除してしまいましょう。それが無理なら、異端派としてしまいましょう・・・」

恐怖心・・・

この本は、「斜め読み」すると面白いと思う。

kaz



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