ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

代役 

 

奇跡のピアニスト郎朗(ラン・ラン)自伝―一歩ずつ進めば夢はかなう奇跡のピアニスト郎朗(ラン・ラン)自伝―一歩ずつ進めば夢はかなう
(2008/07/23)
ラン・ラン、デイヴィッド・リッツ 他

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ラン・ランというピアニストは、どうも苦手だ。演奏の印象の前に、あの百面相が苦手。演奏そのものはいいのかもしれないが。どこか苦手意識のあるピアニストではあるが、彼の自伝(!)などを読むと、かなりの苦労人であるということが分かる。この自伝の中で印象深かったのが、カーティス音楽院時代のこと。彼はゲイリー・グラフマンに師事するわけだが、彼はコンクールにラン・ランを決して出場させなかった。オーディションを受け、ただチャンスを待つ・・・この姿勢を徹底させた。これはグラフマンがコンクール嫌いだったということよりも、ラン・ランのピアニストとしての器をグラフマンが信じたということなのではないかと思う。「彼なら絶対にチャンスがあるはずだ」と。

そして実際にそうなった。ユジャ・ワンもグラフマンの生徒だが、同じような道を歩んでいる。オーディション、そしてチャンスを待つ・・・

彼らと同じ中国からやってきた生徒にチャン・ハオチェンがいた。やはりラン・ラン、ユジャ・ワンと同様、中国では目立っていた存在で、15歳の時に渡米した。グラフマンは、チャン・ハオチェンにはコンクールを受けさせている。彼はヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した。一位を日本の辻井伸行と分け合ったので、そのような意味では日本でも知られたピアニストと言えるのかもしれない。優勝したのだから、大変おめでたいことなのだと思うが、でもこうも考えられるのではないだろうか?

グラフマンはチャン・ハオチェンという生徒はラン・ランやユジャ・ワンほどの器ではない。なので、彼にはコンクールというチャンスしか残されていないだろう・・・そのように考えたと・・・

僕がチャン・ハオチェンの立場だったら、相当傷つくかもしれない。「ああ・・・コンクールしかないのか、僕はそれだけの器だったのだ」と。このあたり、グラフマンは非常にシビアというか、アメリカ人的というか・・・

たしかにチャン・ハオチェンの演奏を聴くと、彼は、やはりラン・ラン、ユジャ・ワンではなかった・・・という印象を持ってしまうのは事実なので、グラフマンの判断は正しかったのだと思う。

思うに、最近は少しずつだが、コンクール優勝ではない経緯で有名になるピアニストも出てくるようになったような気はする。おそらく、キーシンあたりがその始まりで、ラン・ランやユジャ・ワンが活躍すればするほど、コンクールというもののかつての権威が落ちていってしまうようにも思う。別にいいと思うが・・・

コンクールの権威は落ちていると実際に思う。クライバーン・コンクール、前々回の優勝者は日本人だったので、これは多くの(日本)人が「辻井伸行」と答えられると思うが、では前回の優勝者を答えられる人はどれくらいいるというのだろう?

アンドレ・ワッツもコンクール組ではなかった。彼は青少年のためのコンサートのようなものでまず演奏した。この演奏会で演奏するためのオーディションもあったのかもしれないし、そのオーディションだってコンクールのようなものではないか・・・と言われればそうなのかもしれないが、とにかくワッツ少年は大抜擢され、リストのピアノ協奏曲を演奏した。指揮がバーンスタインでニューヨーク・フィルとの共演だ。

本当の意味でワッツ少年が注目を浴びたのは、代役によってだった。たしかグレン・グールドの代役だったと記憶している。バーンスタインが「あの少年はどうだろう?リストを見事に弾いた、あの少年・・・」と言わなかったら、ワッツ少年は世に出てこなかったかもしれない。ピアノを習う少年として終わっていたかもしれない。あるいはピアノ教師とか・・・

バーンスタインは、ただのピアノを習う少年をニューヨーク・フィルの正規の演奏会でデビューさせた。バーンスタインは一度ワッツ少年と共演していたし、ニューヨーク・フィルのメンバーもワッツ少年の鮮烈なリストを覚えていたのだろう。誰もがワッツ少年のピアニストの器を信じたのだ。

バーンスタインの直観は正しかったのだ。ただ達者に弾けるだけの天才少年っだったら抜擢しなかったのではないかと思う。しかし、ワッツ少年は違った。生まれながらに演奏に「華」があった。

ラン・ランが、長い間チャンスを待ち、そしてそのチャンスを生かし世に出ることになったのも、やはり代役だった。アンドレ・ワッツが急病になり、その代役としてラン・ランは演奏したのだ。そして世に出た。歴史を感じる瞬間だ。

kaz



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異端への恐怖 

 

翼のはえた指―評伝安川加壽子 (白水uブックス)翼のはえた指―評伝安川加壽子 (白水uブックス)
(2008/01)
青柳 いづみこ

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この本は以前に読んでいる。普通に一人のピアニストの生涯を追うという読み方もできようが、もう一つの読み方もできるように思う。それは「異質なものが入り込んだ時、既存の価値観の持ち主がどのように反応するか」というところに注目する読み方。

当時の日本のピアニスト、ピアノ教師たちの重ねてきた苦労というものは、想像ができないほど厳しいものであったに違いない。情報の少ない中、西洋音楽というものに、そして西洋文化そのものに憧れ、何もないないところから、一から必死に築き上げてきたものも多かったと思う。何時間も練習し、修業し、楽しいことも我慢してきた。それはピアノの上達のため。西洋に追いつくため。そして、ストイックとも感じられるような、日本独自の演奏、指導というものが出来上がっていった。

そこへフランスから異質なピアニズムがやってきた。

「あ・・・なにか違う・・・全然違う・・・」

すんなりと、そのフランスピアノを受け入れた人もいただろう。「あら、なんて素敵なの。これまでのピアノの演奏って何だったの?」

カルチャーショック・・・

でも、到底受け入れられなかった人達もいたのだ。「もし、あれが主流になってしまったら、私たちはどうなるの?今まで苦労して身につけてきたものは何だったの?いえ、私たちがやってきたことが正しいの。主流なの。あちらが異端なの」

人間は一人だと孤独になる。心配になる。なので、同じ価値観を持つ者同士で固まろうとする。「こちらが主流よ、私たちが正しいの。さあ、連携しましょう・・・」

子どもたちをバリバリと鍛え上げ、コンクールに出場させる。

「ピアノはこう弾くべき・・・それ以外のものなんて、ありえない・・・」

「火鉢で手を温めながら、そして手先が割れ血が出るまで練習したのよ。正しいに決まっている・・・」

当時の日本の主流派はフランスピアニズムに一種の恐怖感を抱いたのではないだろうか?「もし、あちらが主流になってしまったら?」と。なので固まった。グループになれば心強いので、○○派のようなものさえ出来上がっていった。

「この国で力を持つ前に排除してしまいましょう。それが無理なら、異端派としてしまいましょう・・・」

恐怖心・・・

この本は、「斜め読み」すると面白いと思う。

kaz



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裸の王様 

 

ピアノの知識と演奏―音楽的な表現のために (ムジカノーヴァ叢書)ピアノの知識と演奏―音楽的な表現のために (ムジカノーヴァ叢書)
(1999/06/01)
雁部 一浩

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日本のコンクール、子どものものも含め、そのコンクールで現在主流の演奏が「入魂演奏」だと思う。とにかく顔面表情が豊か(?)というか、悲痛の表情、苦痛の表情で弾く。天井を見上げたり、あたかも水泳の腕の動きのごとく、モーションも大きい。

それで実際に出てくる音楽がビジュアル面と同じように大袈裟で表情豊かであれば、それは「趣味の問題」と言えるのかもしれないが、実際の音楽が無味乾燥で、音の色彩感に著しく欠けているのならば、それは哀しさを超えて、笑うしかなくなる・・・

誰かがそのようなものを「目標値」としているのだろうか、とにかく皆が入魂していくのは哀しさを感じる。

世界で活躍しているピアニストに共通しているのは、ビジュアル面で入魂しないということだ。とても自然体で弾いている。どのような曲であっても、顔の表情や身体や腕の動きが最小限に収まっている。

なぜ「なんだかおかしくない?」と誰も言わないのだろう?

ピアノ愛好家としては、入魂演奏については「変なの~」とか「退屈な演奏だよね~」で済むし、そのようなコンテスタントやピアニストの演奏を聴かなければいいのだけれど、指導者はいったい何をしているのだろう・・・とは思う。

なぜ子どもの入魂の様を見て、「北朝鮮のマスゲームみたい・・・」と誰も言わないのだろう?

なにかがおかしくないですか????

ということを語ってくれているのが雁部氏のこの本。ピアノの本、基本的に「練習しましょ~」的な内容が多いが、この本の特色は基本的に日本の現状というものを否定的に捉えているというところだ。

「おかしいよね~」と言っている人もいるのだ・・・と感じる。多くの指導者に、この本を読んで欲しいと思う。

また今日も、子どなが天井を見つめ、腕を上げ方を指導されているのだ。顔面表情の作り方を指導されているのだ。

身体は無意味に動かさない、鍵盤の底まで入魂しない、百面相をしない、水泳のように腕を動かさない・・・

北朝鮮奏法はおかしい・・・

自然に弾こうよ・・・

このように・・・



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初歩でも芸術作品を・・・ 

 

別に頼まれたわけでも必要性があるわけでもないのだけれど、子ども用の教材を弾いたりしている。その根底には、どこかキャッチ―な曲で子どもの興味を持続させるという考えに賛成しかねるところが僕の中にあるのだと思う。ピアノ教育など、全く関係のない世界のことではあるけれど、「現在主流の教材とは具体的にどのようなものなのだろう?」という観点から多くの楽譜を購入して自分で弾いたりしているのだ。また、実際にブログにおいて文章を書く際に、教材に関して、あまりに無知では書きにくいことも出てくるのではないかという思いもある。

バスティン 日本語版 ピアノ名曲集 第1巻  監修・編集 ジェーン・バ   GP9Jバスティン 日本語版 ピアノ名曲集 第1巻 監修・編集 ジェーン・バ GP9J
(2007/01/01)
ジェーン バスティン

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「バスティン」という教材は合理的なのだと思う。指導法ノウハウなどに関しては無知の僕が、ただ弾いてみただけでは分からないことも多いが・・・

古典派の曲やバロックの曲、個人的には生徒が好もうが嫌がろうが、そのような曲は弾かせるべきだと僕は思う。このあたりをきちんと学習しておかないと、後々非常に後悔することになると感じる。自らの経験でもそのように言える。

でも、このような意見もある。「導入においては芸術的価値ある作品というよりは、子どもの興味の持てる曲を中心にレッスン計画を立てる必要性がある。ほとんどの生徒は、音楽の素晴らしさに開眼するのは、ある程度の年齢に達してからなので、それまではキャッチ―で、ある意味子どもが飛びつくような曲でつないでいくことが大事なのです」

そうだろうか・・・と思う。ブルグミュラー(25)やインヴェンション、ソナチネあたりのレベルになるまで、本当に価値ある教材というものは無いのだろうか?Jポップの曲などを教材としていいのだろうか?

僕は、基本的にはお金を貰って教えている以上は、なにかしらの結果を残す必要があると思う。このあたりは、アメリカ的というか、合理的というか、ドライな考えなのかもしれないが、ポップスなどでつないでいく、キャッチ―な曲でつないでいくというのは、お金が絡んでいる以上、どこかまずいのではないかと思う。

たしかに「読譜」から「基本的な曲」までの間、その学習過程の時期に、本物の芸術作品に触れるということの難しさ、そしてその芸術作品そのものが少ないということはあろう・・・

・・・と今までは思っていたのだ。でも購入した楽譜で素晴らしい教材だと思えるものに初めて出会った。

ピアノコスモス(3) テクニックと音楽性が同時に学べるピアノコスモス(3) テクニックと音楽性が同時に学べる
(2006/02/02)
不明

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このシリーズは、本当の導入段階を終えれば、すぐにでも芸術作品に触れられる利点があると思った。正直、「なんだ、初歩からでも芸術作品で学べるじゃないか・・・」と思った。基本的に旧ソビエトの作品から成り立っているようなところが特色なのではないかと思う。この本の中に、グリエールの「ロマンス」も収録されていて、自分で弾きながら、「楽譜はシンプルだけれど、なんていい曲なのだろう」と思ったのだ。ブログにグリエールのことを書こうと思ったのは、子ども用の楽譜を開いて弾いてみたからなのだ。

「いい曲がたくさんあるじゃないか・・・」

さて話題はそれるけれど、外国・・・といっても北米のことしか知らないけれど、グリエール作品、結構演奏されているように思う。本格的なリサイタルで・・・というのは北米でも聴いたことはないけれど、プレ・カレッジの演奏会(発表会)などで、初級者、中級者と呼ばれる人が弾いていたように記憶している。

久々にユーチューブの人の登場。この人もグリエールの曲を多く弾いているようだ。彼が弾いているのは、8つのやさしい小品 Op.43から「アリエッタ」・・・

楽譜は本当にシンプルなのだ。でも本当に美しい作品なのだ。

興味の持てる曲で・・・時には必要だろうが、それを中心にしてしまうというのは、マズイのではないだろうかと思う。このようなことを書くと、ピアノの先生から、また非難のメールが殺到するのかもしれないが・・・

kaz



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ピアノ教師は(も?)ピアニスト 

 

ピアノ奏法の基礎ピアノ奏法の基礎
(1981/03)
ジョセフ・レヴィーン

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前の記事内容と矛盾しているのかもしれないが、音大のピアノ科が、いくら現場密着型になろうと、やはり「ピアノを弾くということ」という部分はメインにして欲しいと思う。ピアノ科の学生は、あくまでも自分の演奏を追い求めるという面を持ち続けて欲しい。というか、教えることがメインのピアノ人生になったとしても、「自分のピアノ」は基本でしょ?・・・と思うからだ。

音楽を追い求め、自分の演奏に磨きをかける・・・これは音楽家だったら基本というか・・・

アマチュアと異なり、ピアノの先生は自分の演奏というものを気軽にアップしない。これは演奏というものを真剣に考えているという証のように僕には思える。演奏にはすべてが露出してしまうから・・・

でもピアノ教師ブログに関しては、個人的には「???」と感じることがある。正確には「損しているなぁ・・・」と感じるというか。

教室の広報という側面も教師ブログにはあると思う。そこには各々の先生の強調したい部分があるのだとも思う。たとえば、料理をアップしたりとか、そのような記事は「厳格な厳しさだけの教師ではありません」という無言のアピールになる。柔らかさをアピールしているわけですね。作戦としてはいいと僕は思う。あまりにも「音楽史」「音楽の成り立ち」のようなことが論文調で書かれている先生だと、「近寄りがたいのでは?」「厳しいのでは?」「うちの子なんか無理よね・・・」と思われてしまうかもしれないし。

そして基本的には、教師ブログなので、生徒のこと、日々のレッスンのこと、教材のこと、セミナーのことがブログ記事の中心を成していくのだと思う。「いつも頑張るA子ちゃん・・・」「こんな工夫で目を輝かせたB子ちゃん・・・」「発表会に向けてのC雄くん・・・」

基本的には、こうなるのだと思う。レッスン、生徒中心のブログ・・・そして教師の「あたりの柔らかさ」というものを適度に含めつつ、セミナー記事をアップし、勉強していますということもアピール・・・

でも、外部の人間が意地悪く(?)読むと、足りないな、損しているな・・・と感じるのだ。

書かれていないことがあるのだ。それは「自分のピアノ」というもの。

ご自身の勉強している曲、それについての想いとか・・・書かれていないのだ。本番に向けて、どのような葛藤があるのか・・・曲を仕上げていく、音楽に触れていく瞬間での出来事とか、ご自身のピアノについては書かれていない。ここが惜しいと思う。

生徒記事は7割にして、あとは「自分のピアノ」のことを書かれたらどうだろう?僕は独身で子供はいないから、なんとも言えないが、自分のピアノの事、尊敬するピアニストのこと、ピアノ曲やその他の音楽について、そのようなことを書かれている教師に自分の子どもがいたら習わせたいと思うだろう。

ピアノ教師は、教育家であるとも思うが、基本的には音楽家であって欲しいのだ。自分のピアノ記事が7割だと、本気で生徒を教えるのかしら、片手間なのでは・・・などとも思われる可能性はあるので、そこはバランス感覚は必要だけれど、でも全記事の中で、ご自身のピアノについて書かれたのが、「生徒用の連弾の練習」と「発表会の選曲のため、あれこれ楽譜を引っ張り出し弾いた」だけでは、ちょっと(かなり)自分のピアノに関しては寂しい内容に思う。

自分のピアノについて書くことは難しいのだと思う。アマチュアではないのだから。アマチュアだったら、実際の演奏がどうであろうと、基本的には「てへへ・・・やっちゃったぁ・・・」的なニュアンスが微笑ましいし、そこがアマチュアの特権だとも思えるけれど、ピアノの先生が自分の本番や練習の記事で、あまりに「てへへ・・・」的なニュアンスを出すのも経営ということを考えるとどうかと思うし、かといって、「私は日本のアルゲリッチである!」のような内容になってしまうと逆効果だし。まぁ、この場合はユニークな先生と受け取られるかもしれないが・・・

自分のピアノについて書くのは、アマチュアと異なり難しい面もあろうかと思うが、でも「書かれていない」というのは、ちょっと損だと思う。弾いていなければ書けないが・・・

ピアノ教師=演奏家=音楽家

いきなり雲の上の人になってしまうのかもしれないけれど、僕はゴロドニツキ、そしてロジーナ・レヴィーンを連想する。共に、イメージとしては「プロのピアノ教師」という側面が強調されている。実際に名教師だったのだ。多くのピアニストを育て上げ、ジュリアード音楽院で教えるという人生を選んだ・・・

でも、ピアニストでもあったんだ。音楽家だった。

この演奏は、ロジーナ・レヴィーンの80歳を記念しての演奏会のライブ。つまり、マダム・レヴィーンはこの時80歳を超えていたんですね。でも日々、練習していたわけです。この時だけ必死に練習した演奏ではないですね、これは・・・

教師としての人生だったけれど、当たり前のことながら、弾いていた。自分のピアノがあった。音楽家だから・・・

kaz



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