ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

練習で歌ってみればいいのに・・・ 

 

ある日本人ピアニストの演奏をユーチューブで聴いていた(僕に聴かされていた?)友人がボソッと言った。曲はたしか、ショパンのバラード第1番だったと記憶している。

僕の個人的感想としては、そのピアニストの演奏、速いパッセージ、難所がいきなり「エチュード化」してしまうということ。特に1番のコーダ、難所だよねぇ。音符は弾けているし、はずさないのも凄いが、ピアノと格闘みたいな?

そこで非クラシック人である友人がボソッと言ったのだ。「これ、何ていう曲?」「バラードの1番」「それってラフマニノフの曲?」そこで僕はのけぞってしまったわけだが、その先の言葉にちょっとドキッとしたのも事実だ。

「彼女、歌ってみればいいのにね」「それって、もっとピアノで歌ってということ?」「というか、家で練習している時に実際に声に出して自分が弾く曲を歌ってみれば、こうはならないんじゃない?」

別に音程まで正確に、ショパンの埋め草パッセージをコロラトゥーラのように歌えというわけではない。メロディーを実際に歌ってみるのだ。ラララ・・・と。

これって「素人意見」なのだろうか?

非クラシック寄り聴き手って、色々と気づいているものでは?感じているというか?その原因追及をする欲求も理由もないから言語化しないだけで。自分は弾かないわけだから。

kaz




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素人のレッスン 

 

まずは自分のピアノ環境というものを考えてみる。環境といっても、電子ピアノだとか、グランドピアノだとか、あるいは防音室がどうとか、そのようなことではない。人前で全く演奏しない、それでいいという人もいるだろうが、多くの人は、人前での演奏機会はあるだろうと思う。自分はどのような聴き手環境にあるだろうか・・・ということ。

ピアノサークルのメンバー、聴き手は自分の場合はそうなる・・・このような人は多いと思う。でもサークルのメンバーって率直な、正直な感想を言ってくれるだろうか?相手とよほど親しければ、後でそっと言ってくれるのかもしれないが、基本的にサークルのような場って、批評はしないというのが普通ではないだろうか?「あ~ん、失敗しちゃったぁ」「ううん、よかったよ~」みたいなことはあるだろうが、「あなたの演奏、抑揚に欠けると思う。弾き方が悪いんじゃない?」なんて誰も言わない(言ってくれない?)はずだ。

クラシック音楽に詳しくない、ある意味偏見を持っているような親しい友人、悪友、このような人に演奏を聴いてもらうというのは、とてもいいことではないかと思う。「クラシック?ピアノ?ちょっとなぁ、自分は高尚な人間でもないし、クラシックってなんだか分らないし」みたいな人。ピアノに関して非協力的な配偶者などでもいいかもしれない。

「練習が足りないんだわ。手が痛くなるまで練習するしかないんだわ」あるいは「私って感性とか才能がないんだわ。だったら人の3倍は練習しなきゃ。今からパッセージ練習100回!」という方向になるよりは、非クラシック友人の率直な、時には見当はずれとも思えるような、ボソッとした一言がヒントになるかもしれない。そのような非クラシック人間から肯定的な言葉、例えば「退屈はしなかった」「クラシックも聴いてみればなかなかいいものだね」みたいな言葉が自分の演奏から引き出せたとしたら、その演奏は本当に「なかなかのもの」であるのでは?社交辞令0パーセントの人の裸の感想、そのようなことを言ってくれる人、人的環境を整える。まぁ、最初は「聴いてくれる?」なんて頼んでも拒否されるだろうが、食べ物で釣るとか・・・

ピアノを自分でも弾く人って、ピアノ演奏の難しさを熟知(?)しているようなところがあるので、どうしても表面上の出来栄えということに視点(聴点?)がいきがちだ。よく弾けるわね・・・みたいな?でも非クラシック人は、意外とそのようなことには無関心だ。その人がどれだけ弾けるかということよりも、音楽として退屈しなかったかみたいなところで聴くからだ。

悪友(?)のボソッとした一言が実は正しい、問題を指摘している・・・ということはあるような気がする。「なんだか、どんな曲かよく分らなかった。よく弾けるねぇ?でも僕はクラシックなんてわからないから」この場合、「そうね、豚に真珠ということかしらぁ?」ではなく、「全部の音が同じ音色で抑揚もフレーズ感覚も皆無でバタバタ弾いているから聴き手に何も伝わらないんだよ」ということを「自分はクラシックなんて分らないから」と言う言葉に置き換えている場合だってあるのでは?聴き手が無知ということではなく、演奏が未熟である・・・

この演奏、僕の友人が非常に驚いた演奏。「えっ?クラシックでこれってあり?」みたいに。たしかに手拍子が起こる曲ではある。ショパンの葬送ソナタでは手拍子もないだろうし、聴いている人も微笑まないだろう。もちろん曲にもよる。でも客席で聴いている人が微笑んでいる、このことに驚く人がいるのだ、クラシックってそういうものではないと。これって、一体感、曲と演奏者、そして聴き手、ここでの一体感に欠けている演奏がクラシック界には非常に多いということでもあるのでは?

クラシックって堅苦しい。それは演奏がそう感じさせているのでは?

非クラシック人間に自分の演奏を聴いてもらおう。上達への道・・・かもしれない。

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飛び出せ、カール! 

 

チェルニーが好き…という人はあまりいないのではないかと思う。僕自身はピアノ教室挫折組なので、チェルニーへの憧れみたいなものはある。それは「わぁ、やっと黄色い帯の本♡」みたいな進級の憧れみたいなものではある。満足に1冊の本が終了できなかった人ならではの憧れ?あっ、終了した本もあったな。「バイエル上巻」は終わったのだった。あとの本は数曲弾いてという感じだったかな。

そのような個人的感情は別としても、チェルニーの練習曲って、ある種のエクスタシーさえ感じる。これって変だろうか?そもそも高速で敏捷なスケール、音型って躍動感を感じるし、運動美のような快感を、聴いていても感じるのだ。洒落た美メロディー、陶酔メロディーが存在していなくても感じるエクスタシー。ショパンのエチュードもそんなところないかなぁ?つまり「音型美」のようなものを感じる。

でも不思議なことに、音色として、どこか軽やかでないと、たちまち「困苦」「根性」のようなサウンドになってしまう。ガリガリというかバリバリというか、そんなに鍵盤の底を叩かなくても的なカールは魅力的ではない。ピアノ教室で繰り広げられているであろうカールは、どこか「根性カール」になっているようにも推測する。それだと辛いだろうなと思う。なので皆嫌うのだろう。

もし、古タイヤを引っ張りながらうさぎ跳びをしているカールではなく、孫悟空のように軽やかなカールだったら、人前演奏で弾いても映えるのではないだろうか?充分に魅力的だと思う。

たしかに、ソロピアノリサイタルで「カールの夕べ・・・エチュードを集めて」というのは辛いものがあるだろうと思うが、サロン的な演奏会などで数曲チェルニーを弾いてみるというのも面白いかもしれない。「えっ?これってチェルニー?」みたいな?

なぜ巷のピアノ教室で根性カールが繰り広げられてしまうのだろう?もしかしたら教師の自らのカール経験が根性そのものであった可能性がある。「きゃっ、楽しい・・・」「きゃっ、軽快♡」というカールサウンドではなかった。それをそのまま・・・では生徒も気づかないのではないだろうか?良薬口に苦し・・・ではなく、本来は躍動美さえ感じるものなのかも。

この動画、映画の一部分なのだろうか、実際に弾いているように思う。吹き替えではないよな。このようなカールだったら楽しいと思う。演奏効果抜群だし、抒情的な曲の間にパッとこのようなカールを入れてみたらプログラムとして、とてもいいのではないだろうか?少なくとも、聴いていて僕はワクワクした。

レッスン室を飛び出して、舞台でカールを弾いてみたら面白いかもしれない。スケールの連続ってワクワクするものなんだ。発想転換をするだけで空飛ぶカールに出逢えるかもしれない。宿題の課題とだけ思わず、レパートリー候補として今弾いているカールを弾いてみたらどうだろう?

それにしても、この映画、何なのだろう?とても気になる。

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あれかこれか 

 

とても上手なのに、どこか残念な演奏というものがある。ミスもないし、本当にスラスラと達者なんだけど。その曲、一曲だけなら「まぁ、達者ねぇ、見事ねぇ・・・」みたいに聴けるのかもしれないが、一晩のリサイタルでその人の演奏を・・・となると、ちょっと躊躇してしまうような演奏。「下手じゃーん?」「ダメじゃーん?」というわけでもないので、余計に残念感が増してしまうというか。

この場合、表面上の技術というものよりも、音楽性とか表現というもので語られることが多い。もし、この部分を、もう少し「技術」という観点で語られるようになれば、「レベルが違うからぁ」とか「私は歌う才能がないからぁ」みたいに思わなくて済むのかもしれない。つまり、音楽的表現、聴いている人が「えっ?素敵じゃない?」と惹き込まれてしまうような、何かしらの要素というもの、それがエリートだけのものではなく、誰にでも可能なこと・・・というように思えてくる可能性がある。

誰にでも音楽的表現は可能、そう思えない人が、もしかしているのだとしたら、それは音楽的表現のためのノウハウ、技術的なものを知らないから・・・ということであるのかもしれない。

「上手じゃないですか?」

パヴァロッティのレッスンを受けているこの学生、とてもいい声をしているように思う。「上手ね」とまず思う。エリート学生なのだろう。古い映像みたいだが、ジュリアード音楽院でのマスタークラスの映像なので、彼はそこの学生なのだろう。

上手なんだけど、残念。個人的印象として、声(音)が散ってしまって、今一つ集まっていない印象。びゃーっと広がってしまっているというか。稚拙な表現で申し訳ないが。音が散ってしまうと、音そのものの集中力に欠けてしまい、演奏がなんとなく散漫な印象になってしまう。

音もっとを集めるのだよ・・・個人的にはそう感じる。音がもっと集まれば、フレーズのシェイプみたいなものが、より明確に聴き手に伝わるのではないかと思う。学生の声は「面」という感じ?パヴァロッティの声、ここではフルボイスで歌ってはいないにも関わらず、「点」という気がしてくる。一点に集中されているというか?

ピアノの場合だと、「面」という感じで、なんとなく腕とか手・・・のように大雑把に弾いてしまうのではなく、指先ビームのような?指先の「点」という感覚を鍵盤に入れ込んでいくというか?

ちょっとした技術的な悟りのようなもの、発見みたいなもの、ここが最終的には演奏というものを左右してしまうような気もする。

学生が歌っているのはヴェルディ。リゴレットからのアリア。「あれかこれか」というマントヴァ公爵のアリアなんだけれど、これって、かなりのセクハラアリアなのではないかと思う。

♪ 

あれかこれか 俺を取り巻く女たちは
俺にとっては皆同じようなものだ
俺の心は こちらの美女にも あちらの美女にも
そう簡単には捧げない

女の魅力というものは 男の命に
花を添えるための神からの贈り物
今日この女が気に入らなければ
明日は別の女が気に入るだろう

マントヴァ公爵、ちょっと(かなり?)軽薄なキャラクターだけど、魅力的でなければならない。まず最初のこのアリアで「なんて彼って魅力的なのかしら」という場を作らなければならない。「この男、何一人で騒いでるの?」というアリアになってしまうと、たとえそれが表面上は見事でもリゴレットというオペラ上演のその後の展開も危ぶまれてしまうというものだ。

パヴァロッティ、フルボイスではなくても神の声、神表現。「まぁ、パヴァロッティだから・・・」と言ってしまえば、そこで終わってしまうのだけれど、声とか表現が「面」ではなく「集中された点」となってはいないか?それによって音楽のシェイプが明確で、バタバタとしていない印象。

理由はあるのだ・・・自分は知らない(教わっていない)(気づこうとしていない)だけなのだ。そう思えると日頃の練習も楽しくなるのではないかと思う。

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あなたに会ったことがある 

 

これもフランコ先生とルディさんの共演。

ルディさんの妻が亡くなった時の演奏らしい。亡き妻に捧げているようだ。演奏、音楽というものが言葉では伝えられない無限のものを伝えている。

「あなたに会ったことがある」 このロシアのロマンスを亡き妻ベロニクに捧げる   ルディ・フローエン


「あなたに会ったことがある」  詞:チェッチェフ

あなたに会ってから死に絶えていた僕の心は蘇ったのだ
輝かしい時を想い 僕の心は熱くなる
もう秋も終わるのに 時が移ろうような日々
春が再び漂うように 何かが僕の中でうごめく

何年も前に忘れたと思っていた
あなたを見ると狂おしいまでの喜びが溢れ出てくる

あなたのことを見つめると 僕たちは何百年も離れていたように感じる
夢を見ているように突然僕の中に湧きあがってくる声を抑えることができない

一度だけではない想い出
もう一度始まる人生

あなたの魅力に惹き込まれていく
僕の魂と愛も惹き込まれていく


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