ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

接待レッスンと胃痛レッスンと「あっ、本当だ」レッスン 

 

接待レッスンという言葉を知った。具体的にはどのようなレッスンなのかは分からない。生徒をいい気分にさせるようなレッスン?レッスン時間を高級旅館の接待のように、いい気分にさせるレッスン?生徒はお客様なのだから・・・みたいな?顧客?

胃痛レッスンというものは想像できる。子ども時代、どちらかと言えば胃痛レッスンの想い出があるからだ。先生が怖い、怒鳴られる・・・みたいな?「明日はピアノだ。あ~あ・・・」胃痛が・・・

子ども時代の胃痛レッスン、責任は僕にもある。練習しなかったから。まぁ、怒られるのも当然だろう。「まったく!少しは練習しなさいよっ」そうなんだけど、「実は練習って何をすればいいのか分からないんですぅ・・・」とは言えなかったんだよね。先生が怖いから。怖くさせてるのは自分なんだけどねぇ・・・

ピアノ、お稽古事として捉えた場合、悩ましいのは家でも練習しなければならないということ。教材の魅力だけで「ワクワク」「キラキラ」を引っ張ること、「ワッ、キャッ」という反応を得ること、実はそれほど長くは続かないような?いつかは地道に家で練習が必要になってくる。「ワッ、キャッ」だけではどうにもならない段階というのは割とすぐにきてしまう。

この「練習をしなければ」の時期と「表現と読譜、テクニックとメカニック」のようなことを合わせていくと、生徒、特に子どもの生徒は「ピアノやって何になるんだろう?」とは思わなくなるのではないだろうか?大人だって「できた!」という感覚は非常に嬉しいものだ。その瞬間があるから、長いスパンでの辛さ(?)にも耐えられるという側面はある。

弾くということだけでも難しいものへの取り組みになっていく。ただ弾く・・・だけでも。教材って徐々に難しくなっていくのが普通だと思うから。表現できたという感覚がないと、継続は難しい。「いつまで、なんのために?ピアニストになるわけじゃないんだし」みたいな?これからの時代、ピアノのレッスンというものは、接待レッスンでも胃痛レッスンでもなく、必要なのは「あっ、本当だ」レッスンなのではないだろうか?

趣味の子どもでも心の底では「上手くなりたい」と思っているものではないだろうか?教師の適格なアドバイスによって、その場で変わる、家に帰ればもとに戻ってしまうにしても「あの時、できたんだ」という思いは生徒にとって非常に大きいものだ。この「できる」は音符がつっかえずに弾ける・・・ということだけではなく、「ほら、今素敵になったじゃない?」みたいな奥深くの表現のようなものとも絡まってくるような気がする。接待レッスンの場合、最初から「この程度だったら楽しめばいいんじゃない?」とか「趣味だから表現なんて・・・」みたいな生徒をやや見下したところもないだろうか?

「あっ、本当だ」レッスン、生徒は僕も含めてだが、自分の問題点、冴えないな・・・みたいなところは大雑把に感じてはいる。教師の仕事としては、その大雑把な部分にメスを入れる。具体的情報によって。

「あなたはこうしてるけど、こうしてみたら?」「あっ、本当だ」

生徒の抱えている諸問題、気づいていない諸問題を具体的に、的確なタイミングで気づかせる、レッスン時間内の限られた時間の中で。教師のアドバイスによって、一瞬でも変化したことが音体験として生徒は得られるのであれば、家に帰って元に戻ってしまうにしても、その体験は忘れない。いつかは結びつく。生徒からすれば、それは泣き出したくなるほどの嬉しさだ。一生忘れられないほどの嬉しさだ。

ピアノって押せば音は鳴るから、声楽ほど「音」「声」としてマズイところが反映されにくい。声楽の場合、表現とメカというものは直結しているようなところはピアノよりも分かりやすいような気もする。このことは同時にピアノの難しさにもつながるとも思う。

「あっ、本当だ」レッスン、これからピアノのレッスンでも主流になっていけばいいなと思う。

kaz




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チェルニーの目的 

 

なぜチェルニーを弾くのだろう?「だってハノン、チェルニー、バッハ、曲・・・ってピアノ学習の王道でしょ?」ということなのだろうか?

ハノンは指を強くする、とか、チェルニーは指を速く動かすため・・・という誤解(?)は今でもあるのかもしれない。

たしかに指のアジリティというものはチェルニーを弾く際には必要だと思う。重苦しい鈍重なチェルニーって、あまりいい感じではない。

でも、パラパラと速く・・・ということだけが目的だと退屈なのではないだろうか?ピースもの感覚で一曲だけチェルニーを仕上げるというケースは少ないと思う。多くは教本としてチェルニーは存在する。その教本には40曲とか50曲とか100曲とか、延々とある。スケールとかアルペジオとか、音型群の大群(?)が。

「ああ、これを延々と?」

ただ速く動かす・・・ではなく、音型美で成り立つ素敵な曲を弾けるようになるため・・・と考えたらどうだろう?チェルニーの練習曲は、美しい音型が連なってできている美を効率よく身につけるための手段・・・と。曲になっているし、同じ音型を効率よく繰り返すことで、「ただパラパラと動かす」ではなく、音型を美しく・・・みたいな?

ある目的のための手段、それがチェルニー。チェルニーが手段となるならば目的は何だろう?

こんなに素敵な曲をこんなふうに素敵に弾くため・・・

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時間 

 

中学進学というのがピアノ継続の大きな壁なのだろう。進学塾に通う子供は小学生のうちから多いのだろう。「生徒がピアノ教室から塾に流れる」みたいな感じなのだろうか?でも考えてみれば、成人になるまで、ずっとピアノ教室に通い続けるということは難しい。ピアノが好きとか嫌いとかは関係なく。人は進学に限らず、色々と経験しなければならない。就職、起業、結婚、出産、転勤、突然の病気、介護・・・等々。ずっと同じ教室に水曜日の18時に・・・ということはないだろう。いつかはピアノは、教室は辞めるのだ。

でも、できるだけ辞めるのを引き伸ばしたいというか、「せめて中学時代もピアノに触れていてくれれば・・・」みたいな願いは当然ピアノ教師側は持つだろう。このあたりはセミナーの中心テーマでもあるのではないだろうか?生徒が辞めないレッスン、教室、興味を持たせるレッスン・・・等々。工夫やノウハウもあるのだろう。多忙な中での練習方法、負担のない教材、モチベーションの維持とか。そのような様々な工夫は、ある意味「手段」なのではないかと思われる。「目的」を具現化させるための手段。この手段については、本当にいろいろと語られていたり、セミナーなどで伝えられたリしているという印象を持つ。でも肝心の目的はどうなのだろう?むろん、ピアノを習う目的というか動機は人それぞれ・・・と言われればそれまでだが、ある共通した想い・・・のようなものはあったりするような気もしている。

塾や部活で忙しくなる・・・そうなのかもしれないが、ピアノを弾き続けている大人はどうなのだろう?フルタイムで仕事をしていたり、育児や介護をしている中でピアノを弾いている大人は多いような気がする。いかに練習時間を確保するか、モチベーションを維持するかというのは、大人にとっても大きなテーマであるように思うし、むしろ忙しいのは大人・・・なのでは?

残業などで忙しい会社員に興味を持たせるレッスン・・・などというセミナーは、あまり聞かない。大人にはピアノを習っている、一般的な就学中の子どもと何が異なるのか?意思がある・・・のでは?「ピアノを弾きたい」という強い意志。暇なのでピアノでも・・・という理由でピアノを弾いている大人って少ないような?意思・・・弾きたいという意思、その根底には音楽への想いがあるのかもしれない。その想いはそれぞれだろうけれど。

保護者はどのような理由で子どもにピアノを習わせるのだろう?「習いたいと子どもが言ったから」「情操教育」「脳にいいから」などということもあるだろう。でも「ラフマニノフの3番を大ホールで演奏させたいから」という保護者はいないだろうと思う。

将来、この子の人生の一コマで、何かしらがあった時、そのような時、ピアノを弾いて音楽に触れることができたら、そのことによってこの子の心が慰められるのなら・・・

仕事におけるキャリアアップとか収入ということだけではなく、もし音楽で人生における、大切なものを感じ取れたら・・・

・・・そのようなことなのではないだろうか?これって大人がピアノを再開する時に心に秘めて感じているものだったりして。

将来ピアノを職業として・・・と願うから子どもにピアノを習わせる保護者は少ないように思う。「塾に行くから」「忙しくなるから」「受験なので」あるいは「ピアノに興味をあまり持てなくなってしまったので」という理由でも、ピアノを辞めるという時、さらにはピアノを習っている時から、それは将来の一コマの、ある「時間」につながっているのかもしれない。

このような「時間」が尊いから、今、ピアノを習っているのでは?習わせているのでは?

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練習で歌ってみればいいのに・・・ 

 

ある日本人ピアニストの演奏をユーチューブで聴いていた(僕に聴かされていた?)友人がボソッと言った。曲はたしか、ショパンのバラード第1番だったと記憶している。

僕の個人的感想としては、そのピアニストの演奏、速いパッセージ、難所がいきなり「エチュード化」してしまうということ。特に1番のコーダ、難所だよねぇ。音符は弾けているし、はずさないのも凄いが、ピアノと格闘みたいな?

そこで非クラシック人である友人がボソッと言ったのだ。「これ、何ていう曲?」「バラードの1番」「それってラフマニノフの曲?」そこで僕はのけぞってしまったわけだが、その先の言葉にちょっとドキッとしたのも事実だ。

「彼女、歌ってみればいいのにね」「それって、もっとピアノで歌ってということ?」「というか、家で練習している時に実際に声に出して自分が弾く曲を歌ってみれば、こうはならないんじゃない?」

別に音程まで正確に、ショパンの埋め草パッセージをコロラトゥーラのように歌えというわけではない。メロディーを実際に歌ってみるのだ。ラララ・・・と。

これって「素人意見」なのだろうか?

非クラシック寄り聴き手って、色々と気づいているものでは?感じているというか?その原因追及をする欲求も理由もないから言語化しないだけで。自分は弾かないわけだから。

kaz




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素人のレッスン 

 

まずは自分のピアノ環境というものを考えてみる。環境といっても、電子ピアノだとか、グランドピアノだとか、あるいは防音室がどうとか、そのようなことではない。人前で全く演奏しない、それでいいという人もいるだろうが、多くの人は、人前での演奏機会はあるだろうと思う。自分はどのような聴き手環境にあるだろうか・・・ということ。

ピアノサークルのメンバー、聴き手は自分の場合はそうなる・・・このような人は多いと思う。でもサークルのメンバーって率直な、正直な感想を言ってくれるだろうか?相手とよほど親しければ、後でそっと言ってくれるのかもしれないが、基本的にサークルのような場って、批評はしないというのが普通ではないだろうか?「あ~ん、失敗しちゃったぁ」「ううん、よかったよ~」みたいなことはあるだろうが、「あなたの演奏、抑揚に欠けると思う。弾き方が悪いんじゃない?」なんて誰も言わない(言ってくれない?)はずだ。

クラシック音楽に詳しくない、ある意味偏見を持っているような親しい友人、悪友、このような人に演奏を聴いてもらうというのは、とてもいいことではないかと思う。「クラシック?ピアノ?ちょっとなぁ、自分は高尚な人間でもないし、クラシックってなんだか分らないし」みたいな人。ピアノに関して非協力的な配偶者などでもいいかもしれない。

「練習が足りないんだわ。手が痛くなるまで練習するしかないんだわ」あるいは「私って感性とか才能がないんだわ。だったら人の3倍は練習しなきゃ。今からパッセージ練習100回!」という方向になるよりは、非クラシック友人の率直な、時には見当はずれとも思えるような、ボソッとした一言がヒントになるかもしれない。そのような非クラシック人間から肯定的な言葉、例えば「退屈はしなかった」「クラシックも聴いてみればなかなかいいものだね」みたいな言葉が自分の演奏から引き出せたとしたら、その演奏は本当に「なかなかのもの」であるのでは?社交辞令0パーセントの人の裸の感想、そのようなことを言ってくれる人、人的環境を整える。まぁ、最初は「聴いてくれる?」なんて頼んでも拒否されるだろうが、食べ物で釣るとか・・・

ピアノを自分でも弾く人って、ピアノ演奏の難しさを熟知(?)しているようなところがあるので、どうしても表面上の出来栄えということに視点(聴点?)がいきがちだ。よく弾けるわね・・・みたいな?でも非クラシック人は、意外とそのようなことには無関心だ。その人がどれだけ弾けるかということよりも、音楽として退屈しなかったかみたいなところで聴くからだ。

悪友(?)のボソッとした一言が実は正しい、問題を指摘している・・・ということはあるような気がする。「なんだか、どんな曲かよく分らなかった。よく弾けるねぇ?でも僕はクラシックなんてわからないから」この場合、「そうね、豚に真珠ということかしらぁ?」ではなく、「全部の音が同じ音色で抑揚もフレーズ感覚も皆無でバタバタ弾いているから聴き手に何も伝わらないんだよ」ということを「自分はクラシックなんて分らないから」と言う言葉に置き換えている場合だってあるのでは?聴き手が無知ということではなく、演奏が未熟である・・・

この演奏、僕の友人が非常に驚いた演奏。「えっ?クラシックでこれってあり?」みたいに。たしかに手拍子が起こる曲ではある。ショパンの葬送ソナタでは手拍子もないだろうし、聴いている人も微笑まないだろう。もちろん曲にもよる。でも客席で聴いている人が微笑んでいる、このことに驚く人がいるのだ、クラシックってそういうものではないと。これって、一体感、曲と演奏者、そして聴き手、ここでの一体感に欠けている演奏がクラシック界には非常に多いということでもあるのでは?

クラシックって堅苦しい。それは演奏がそう感じさせているのでは?

非クラシック人間に自分の演奏を聴いてもらおう。上達への道・・・かもしれない。

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