ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

愛で終わる人々 4 

 

イタリア人って「アクセント」「フェルマータ」「テヌート」「アッチェレランド」「スタカート」・・・これらの音楽用語を赤ちゃんの頃から言葉、会話の中で無意識に使いこなしてきたのではあるまいか?言葉に抑揚がある。

「刑事」というイタリア映画があった。1950年代の古い映画だ。監督のピエトロ・ジェルミは刑事役の俳優としても素晴らしかった。クラウディア・カルディナーレの美しさも際立っていた。何よりもカルロ・ルスティケッリの音楽が涙を誘う。決してロマンティックな映画ではなく、ましてや恋愛映画でもない。暗い(渋い?)刑事物だ。でもラストに「死ぬほど愛して」が流れると泣かずにはいられない。恋人を追いながら走るクラウディア・カルディナーレ・・・彼女はこのシーンでスターになったのかもしれない。

その「刑事」の場面集。会話が抑揚ありすぎ。喧嘩しているみたいだ。まぁ、内容的に会話は激しい場面ではあるが、会話のサウンドそのものが「感情のすべてを爆発」みたいな?イタリア語、激しい・・・

このような人たちが作った音楽(イタリアものとか狭い意味ではなく)と考えてみる。我々は譜読みをする時、音の高低、長短だけを読んで音にしていないだろうか?視覚的な情報を鍵盤で押すみたいなことをしすぎていないだろうか?それが譜読みだと思っていないだろうか?抑揚、彼らには自然なことかもしれないが、我々は意識しないといけないのではないか?

音だけではなく「抑揚はどうなのかしら?」という譜読みも必要なのかもしれない。我々は全部が8分音符の人たちなのだから・・・

kaz




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愛で終わる人々 3 

 

フィオレンティーノよりも、さらに知名度の低いピアニストかもしれない。サンドロ・デ・パルマというピアニスト。チマローザのソナタを演奏しているのだが、実に美しい演奏だ。ピアノのトーンそのものが歌みたい。イタリア人だから・・・と言ってしまえばそうなのかもしれないが・・・

この動画はピアニスト本人がユーチューブにアップしている。バルコニーからの雪景色、これは自宅のバルコニーから撮影しているものと思われる。また、近所(ローマ)の雪景色も美しい。美しい演奏は、美しい住環境に関係している?毎日目に入るものだから、可能性はあるかもしれない。ピアノが上手くなるためには美しい景色の中で暮らせばいいのか?

さり気ないような美しさなのだが、左手の刻みにメロディーを合わせています的な演奏ではなく、メロディーが生きている感じ?よく聴くと(よく聴かなくても)フレーズ内で旋律の動きが一定ではなく、山に向かって、そして落ち着いて・・・のような自然な動きがある。長い音符はエネルギーがあるように、細かい音符は枯れ葉がチラチラと落ちるように・・・この動き、イタリア語の会話に似ているような気がする。つまり言葉に抑揚がある。

フランス語って美しい言葉とされているらしいけれど、フンフンと抜けてしまう感じで、個人的にはイタリア語の方がサウンドとして音楽みたいだなと感じる。何を言っているのかは全く分からないけれど、だからこそ「あそこの店で洗剤買ってきて」のような日常的な言葉でも音楽的に聴こえるのかもしれない。

母国語に抑揚がある、これは外国人にとって日本語を学ぶ際のネックになるらしい。どうしても外国風(?)な日本語、抑揚の激しい日本語になってしまう。その場合、「全部が8分音符。それ以外はないの」と指導すると、少しは日本語らしくなるのだそうだ。

日本人が西洋音楽を演奏する、そして「なんだか音を並べているだけ?」と感じる場合、この逆をすればいいのかもしれない。自分たちの言葉は、イタリア語と比較すれば「全部が8分音符」なのだから、意識的に抑揚を感じなければならない。タモリのように「なんちゃってイタリア語」を話してみたら?それをそのままピアノに移してみたら?意外と抑揚効果ありかもしれない。

kaz




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愛で終わる人々 2 

 

イタリアのピアニスト、まずはポリーニでしょう。たしかにi、愛で終わる苗字の人ではある。でも彼よりも個人的には愛を感じるイタリアのピアニストとしては、iでは終わらないけれど、セルジオ・フィオレンティーノを挙げたい。

この人、無名・・・ではないのだろうが、練習会の打ち上げなどで話題になるほどの知名度はないようだ。「ポリーニって?」という人はいないと思うけれど、フィオレンティーノだったら可能性はある。

ああ、歌・・・そんな存在のピアニストだ。

どの曲の演奏でも歌を堪能できるピアニストだと思うけれど、まずは彼自身のトランスクリプションを聴いてみるといいのではないだろうか?フォーレの「夢のあとに」のトランスクリプションとしては、アメリカのアール・ワイルド(この人も好き)のものが演奏される機会が多いように思う。フィオレンティーノ版は、それよりも飾りが少なく、原曲に忠実な感じだ。シンプルな美・・・というのだろうか?

たった2ページ、音も多くはない。でも・・・素敵だねぇ。編曲も演奏も素敵だ。

kaz




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愛で終わる人々 1 

 

本場の音、基本的に僕はこれを信じない。ショパンを本当に演奏できるのはポーランド人だけだ・・・とか。やはりドイツ人だけあってバッハの神髄に迫るような・・・とか。信じない。我々日本人は西洋音楽を演奏できないではないか?マリア・カラスはアメリカ人にしてはイタリアオペラが上手だ・・・なんて言う人もいない。アルゲリッチの演奏にアルゼンチンらしさ感じ取り感動するなんてこともないように思う。そう、本場の音なんてないのだ。国籍なんて関係ない。

それはそうだが、苗字がアルファベットのiで終わる人々がいる。つまりイタリア人。イタリア人ってオペラ、愛の国・・・そのようなイメージはある。つまり歌う人というイメージ。

不思議なのだが、ピアノのレッスンでは「歌って~」のオンパレードなのに、日本のピアノ教育、ピアノレッスンとイタリアとの接点ってあまりないような?歌が好き?オペラが好き?声楽科を受験するの?・・・みたいな?日本のピアノって、どうもドイツっぽい。それはいいのだが、どこか重苦しさも感じる。バッハの平均律は旧約聖書でベートーヴェンのソナタは新約聖書とか・・・お、重い。どこか受験の必修科目のような?

僕はバッハよりもヴィヴァルディが好き・・・これはかなり勇気の必要な、かつ大胆な発言だろうか?鑑賞者としては(学習者としても?)神バッハよりはイタリアン・バロックに惹かれる。バロックのピアノ、チェンバロよりは、弦、声楽に惹かれる・・・

ドイツとの接点はあった。今の流行はロシア・・・だろうか?「ロシア奏法」とか?

何故イタリアではないのだ?歌の国なのに・・・ピアノって歌っぽくない楽器なのか?

苗字がi、愛で終わる人々、つまりイタリア人の歌、作品、ピアノ演奏を追ってみたらどうなるだろう?歌の国の人は、やはり歌うのだろうか?それとも国籍は関係ないのだろうか?

ピアノで歌って~

ならば歌の国を彷徨ってみようと・・・あまりピアノ人は訪れない国だからこそ訪ねてみようと・・・

僕の初クラシック演奏会、つまり生まれて初めての生演奏体験が歌の国の人の歌だった・・・

1973年のことだ。Corelli・・・ほら、愛で終わっている。

kaz




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先読み準備万端!! 

 

フィギュアスケートの演技で多少の取りこぼしがあっても高得点の出る選手、出ない選手、ある共通点があるように思う。例えば、ジャンプを跳んだ場合、片足で降りるということだけしか考えていない(ように見える)選手と、跳んだ瞬間に降りた後の姿勢、軌跡の美しさまでを想定、準備している選手との違いみたいな差だろうか?

ピアノ演奏でも、ある音を鳴らした瞬間、次の音に対しての自分なりの「理想サウンド」が頭の中で鳴っているだろうか?そのサウンド、音を鳴らせるようにするのが練習・・・

ジャズのアドリブ、この場合、鳴らしている音に必死・・・だと続かないように思う。次の音、さらに次の音が頭の中で鳴っていないと難しいのではないだろうか?何故にクラシックになるとこの感覚が乏しくなるのだろうか?

練習とは印刷された音を鳴らせるようにする・・・ではなく、次の理想音を具現化すること・・・と捉えてみたらどうだろう?つまり準備万端状態というものを身につけるということが練習。準備するためには、次の音の理想音が必要。そのために準備をする。そこのところが曖昧だと、つまりどのような音が欲しいのか自分で分かっていないと、準備という観点すらなくピアノを弾くことになってしまう。

これには練習というものの概念を変えてみる必要がある。発想転換。ここが難しいのかもしれない。一応弾けるようにする・・・のが練習ではなく、譜読みではなく、最初に理想形を掴む。そこにどうしたら到達できるのか、それが練習。

ドを弾いた。次のレの音は、行き当たりばったりではなく、理想のレが自分の中で鳴っていて、その理想に近づけるのが練習・・・理想の音がなければ準備も何もないではないか?

こう考えると、譜読みでも「一応音を並べるようにしてから、つっかえずに通して弾けるようにしてから表現を考える」という手順が、いかにおかしいのかが分かってくる。

習慣というものは恐ろしいというか、子どもの頃から「まずはつっかえないで弾けるように、(表面上)正しく弾けるように」ということを徹底され、「弾けるようになってきたから、では音楽的な表現も考えていきましょう」的なレッスンをずっと受けてきたのなら、大人になっても「練習とはこのようなもの」「曲を仕上げるとはこのようなもの」みたいな感覚があるだろうと思う。

ある演奏を、ある曲を聴いて萌えたのなら、その時に「ああ素敵・・・」と感じたのだったら、感じたからこそピアノなどを弾いているのだと思うが、感じたのだったら、あなたは機械ではないのだ。音楽的不感症、音並べ人間ではないのだ。

① 自分差別をやめる・・・どうせできないしぃ。ピアニストさんじゃないし。基礎がないしぃ・・・をやめる。
② 自分の描いた理想音楽は素晴らしい。まず自分自身がそのサウンドに心を動かされたのだから。遠いかもしれないが、できると思うこと。そのサウンドが自分を動かしたのだから。
③ 自分の理想サウンドを信じて、準備をすること。そこに無頓着だと、「ああ、こんな音じゃないんだけどな」とさえ思わす、ツラツラと印刷音符だけを弾いてしまう。
④ 上手い人って準備が早いと認識する。才能とか、経験とか、そのようなことよりも、準備が早い。
⑤ 何を準備するの?自分の理想音。一応弾けてから・・・ではなく理想サウンドのために練習する。

バーブラの初期の頃の歌唱。僕が生まれる前だ!自然に音楽的に何気なく歌っているようにも聴こえるけれど、準備が凄い。ある音を歌った瞬間、身体中、意識のすべてが「次の音」に向かっているような???

kaz




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