ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ピアニストのギャラ 

 

ピアニストのギャラ、僕は相場のようなものは知らない。まぁ、人それぞれなんだろうなとは思う。現実には「持ち出し」という人も多いのだろうなと想像する。有名なホールで華やかに・・・のように見えても、それが自主リサイタルであれば、チケットが売れなければ「持ち出し」ということになるだろうし、多くの場合、黙っていてもプレイガイドでチケットがさばけるなんていう人の方が少ないと思うし。

活動しなければお金にならないし、活動しようとすればお金は出ていくしで、ピアニストって大変だなと素直に(?)思う。自分でチケットを売ったり会場の予約をしたり会場費やプログラムの印刷代などを払わないピアニストもいる。来日する外来のピアニストとか、日本人でも非常に有名な人などは、純粋にギャラを貰うという形になることが多いのではないかと思う。

パデレフスキ、駆け出しの頃はどうだったのかは知らないが、有名になってからの彼のギャラ、一回の演奏旅行でのギャラは当時の米国大統領の年俸の3~5倍だったそうだ。むろん、一晩のリサイタルへの報酬ではなく、何回もリサイタルは行うわけだし、演奏旅行中の全部のリサイタルに対してのギャラなのだろうが、それにしても高額だ。

トランプ大統領は給料は受け取らないと言っていたそうだが、米国大統領の年俸は約40万ドル。4300万円ぐらいか?その3~5倍の額がパデレフスキのギャラだったわけだ。億???まぁ、今だったら・・・ということだが。それにしても・・・

パデレフスキの演奏、特にこのノクターンの演奏が好きだ。この曲、僕の最も好きな演奏はヨゼフ・ホフマンのものになると思うが、パデレフスキもいいなと思う。なんというか、現代の名手とは大きく大きく異なる演奏ではある。伸び縮みというのだろうか、ルバートというのだろうか、さすがに大胆だねぇ・・・

このノクターン、現代のショパンコンクールでどう評価されるかということは、とても興味あるところだ。予選敗退?

この曲、何人か現代の名手の演奏を聴いてみた。「う~ん、これは受けるだろうな、これは高評価だろうな」と個人的に感じたのが、ツィメルマンとポリーニの演奏。上手いよねぇ?当たり前だが音楽的というか?両者ともとてもクリアだ。印刷されたものを全部表現しつくしています・・・のようなクリアなところがある。素晴らしい・・・と僕でも思う。

でも、夜寝る前、ひと時の音楽としてショパンを聴くのであったら、僕はポリーニでもなく、ツィメルマンでもなく、このパデレフスキやホフマン、あるいはコチャルスキなどの演奏を聴いて眠りたいと思う。これは完全に主観的な好みの問題だろう。

音が違うんだよな・・・と思う。まずは伸び縮みに耳がいくのだが、そのことよりも音。何と言ったらいいのだろう?パデレフスキに限らずなのだが、往年系のピアニストの音って独特の軽さがある。キラキラなんだが、同時にコロコロという軽さ。現代の演奏に最も欠けている、という言い方はいけないな、個人的にもっと欲しいなと感じるところでもある。キラキラした音の人は多いのだが、コロコロ・・・という人が今は非常に少ない。キラキラとかコロコロとか、表現が稚拙で申し訳ないけれど・・・

この演奏に札束が舞ったのか・・・と思う。その価値はあると当時の人たちは判断したのだろう。

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング
スポンサーサイト

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

狙い撃ち 

 

音楽や演奏が自分の気持ちや感情を代弁してくれるような気がする。そのように音楽と接する。自分なんて芥子粒のような存在だ。自分の人生なんて世の中の流れからすれば、歴史の積み重ねからすれば、それは豆粒のようなものだ。

そんな豆粒人生でも、いろいろとあったりする。楽しいこともだが、辛いことだってあったりする。それは僕だけではないだろう。誰でもそうではないだろうか?多くの人は別に泣きながら歩いたり買い物したりはしないけれど、すべての人がハッピー、バラ色・・・なんていうことも少ないだろうと思う。

そんな誰でも感じる辛さ、その感情を音楽や偉大な演奏は代弁してくれる。雲の上の存在ではあるけれど、でも「自分なんかには関係ないところの高尚なもの」という感じではなく、どこかで自分の感情や気持ちとつながっていてくれる、そして代弁してくれる・・・

なんとなく芸術=高尚、人間=低俗・・・のようには切り離して考えられないところがあるのだ。僕がものすごく傲慢なのだろうか?そうかもしれないが、それとは別にもう一つの理由があるようにも思える。それは僕がオペラ好きということも関係しているような気がする。オペラ・・・といっても色々だが、特にヴェリズモ・オペラを聴く(観る?)とそう感じることが多い。

ヴェリズモ・オペラ、生活感バリバリのストーリー、人間の隠したいような感情、それは嫉妬とか、そのようなものだが、それを隠さずに音楽、歌で表現してしまう。「ねえ、聞いてよ。あの人ったら私という女がありながら浮気しているの。酷いと思いません?」とか「ああ、こんなに愛しているのに・・・」「そういうところがウザいんだよ」とか。その女性は軽薄な男に突き飛ばされたりして。「ああ、なんてこと。今に見てらっしゃい。後悔させてやる。女は怖いのよっ!」このような俗界バリバリの世界が舞台で表現されるのだ。登場人物も王女さまとか妖精ではなく、そのへんで洗濯を干している女だったり、浮気性の酒飲みの男だったりするのだ。


「ああ、現実にもあるある・・・」などと思う。別にオペラのリブレットのような体験、つまり浮気されたりしたことはなくても、なんとなく登場人物の心情と自分のそれと重なることもあるのだ。「そうそう、それって辛いんだよね」みたいな自分の感情に音楽がズドンを狙い撃ちしてくるのだ。

僕の場合、ピアノ曲やその他の器楽曲を聴いたりしても、同じように「ズドン」と狙い撃ちされる感じなのだ。この辛い、切ない、そのようなものを吐き出すというか、乗せたくなるのだ。おそらくヴェリズモ気分のピアノなのだと思う。聴いている人は大迷惑かもしれないが・・・

この男は浮気されている。悔しい、哀しい、切ない、そう思う。泣きたい。でも男の職業は道化師。皆の前で泣くわけにはいかない。苦しみを笑いに変えるのだ。それが俺の宿命。道化師なんだから。衣装をつけるんだ。道化師になるために・・・

この男は舞台上のストーリーと現実が分からなくなってくる。そして女を殺してしまうのだ。実際にイタリアであった事件をもとにリブレットが作られたそうだ。

マリオ・デル・モナコの「道化師」・・・1961年、日本での公演より。

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

G線上のアリア 

 

ピアノを弾いていくうえで、何を目標とするか、それは人それぞれなのだろう。美しく弾きたいとか、できるできないは別として、自分が鑑賞者として受けた感動と自分の演奏とを切り離したくないとか、そのような人もいれば、憧れの曲が実際に自分の手で音になっていくということ、それが楽しいという人も中にはいるだろう。この場合、曲のレベルが上がっていく、つまり徐々に難曲に挑戦してくということに満足感を感じる人だっているかもしれない。どう弾くかよりも、何を弾くか、○○という曲が弾けるということが重要な人もいるのかもしれない。そのようなことって人それぞれなのかもしれない。

60歳からピアノを始めた人がいるとする。トツトツと弾いているだけで楽しい。たまにはサークルなどでも演奏してみる。非日常性を感じるし、ちょっとおしゃれをして都会の素敵なサロンで演奏する。いいことなのでは?その場合、どう弾くかとか、こうすればもっと美しく弾けるのに・・・のようなことがあったとしても、その人が楽しければいいのかもしれない。美しくとか、もっと弾けたらとか、全員が思う必要もないというか?その人がその時点で満足しているのだったら、それはそれでいいのでは?

ピアノ教室の現場でもそうかもしれない。生徒は別に職業ピアニストを目指しているのではないのだ。あまりヤイヤイと細かな事を言っても・・・

この生徒がそれなりに音楽とかピアノに楽しめればいいのでは?どう弾くか、そこまで考えないピアノ・・・それもありなのでは?人それぞれなんじゃない?

昔受講したサナトロジーの講義を思い出す。70歳を過ぎた、ある末期癌の女性の話だ。その女性は命の有限性というものを考えた。「私は残された人生、何をしたいのだろう?やり残しということで後悔することって何だろう?」その女性はヴァイオリンを弾きたい、弾けるようになりたいと感じたのだそうだ。音楽とは無縁の人生だったし、子どもたちを育てることで幸せな人生でもあった。いきなりヴァイオリン?周囲は驚いたが、自分でも驚いた。「私はヴァイオリンに憧れていたんだ。少女時代から。でも、ヴァイオリンを弾くとか習うなんて、私にはあまりにもかけ離れたことだったし、元気な頃は考えもしなかったけれど、本当は弾いてみたかったんだ・・・」

その女性はバッハの「G線上のアリア」を弾きたいと思った。大好きな曲だ。でも自分で弾きたいと思うなんて。いや、本当はずっと思っていたのかもしれない・・・70歳を過ぎて、もうすぐ死ぬのに、一からヴァイオリンを習う?教えてくれる先生なんているかしら?

「ああ、でもあの曲が弾けたらどんなにいいだろう?死ぬ前に、治療がもっと辛くなってヴァイオリンどころではなくなる前に、弾いてみたい」

予想以上に高齢になってからヴァイオリンを習うことは難しかった。「音を出すことがこんなに難しい楽器だったなんて・・・」でも先生は根気よく熱心に指導してくれた。「来年、発表会があるの。出演するのは子どもたちがほとんどなの。そのような意味で、あなたは出にくいかもしれない。でも憧れのバッハ、そこで弾いてみない?せっかく習っているのだから・・・」

初めての人前での演奏、自分なりに精一杯弾いたし練習もした。憧れのヴァイオリン、憧れの「G線上のアリア」を弾いたんだ・・・

もう思い残すことはない・・・

でも初めての人前での演奏後、その女性はこう思った。自分でも不思議だが、こう思ったのだそうだ。「弾けた。そう、憧れの曲が弾けた。その意味では満足だ。でも、私はもっと上手になりたいと今思っている。こんな気持ちになるなんて。もっと美しく弾きたいとか、上手になりたいだなんて。プロになるわけでもないし、私はもうすぐ死ぬかもしれないのに。ヴァイオリンが上手になったからどうなるというの?美しく弾けるようになったからどうなるっていうの?でも上手になりたい。もっと美しいヴァイオリンを弾いてみたい」

最後のレッスン、その女性はヴァイオリンの先生にこう言ったのだそうだ。「もう本当に最後なんです。癌とは闘ってきましたが、もう終わりです。緩和ケアに移行します。私の決断です。レッスン、ありがとうございました。憧れの曲を人前で弾けたのはとても嬉しかった。でもその後、なぜだかもっと上手になりたいと思った。そんなことしてどうするの・・・なんて先生は仰らず、難しい課題を私に与えてくれた。人生の最期でも私は成長することができた。美しいものに憧れて触れようとしたし、そのような気持ちになれた。弾けたことよりも、それが何よりも嬉しかったです」

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

練習のための本番って変かもしれない。 

 

学校の授業には「指導案」というものがある。指導計画があり、その計画を具現化しなければならないのが建前(?)ではある。授業という限られた時間の中で、計画に沿って目標に達していく、その段階を具体化したものが授業の指導案・・・ということになろうか?つまり行き当たりばったりではなく、目標達成のために、やるべきことを各授業単位で計画しなさいということだろうと思う。

ピアノのレッスンで実際に指導案作りをしている先生はいるのだろうか?いるだろうと思う。特に大学で教員養成的なものを学んだ先生は、その分野に強いだろうと思う。レッスン毎にプリントアウトされた指導案が必要かとどうかはともかくとして、目標があり、その具現化という基本の流れはピアノのレッスンでも必要かもしれない。病院などでも「看護計画」とか、あるはずだ。それと同じかな?

僕自身はピアノ教師ではないので、具体的なピアノレッスン指導案みたいなものには興味はないし、語る資格もないと思う。でも達成したい目標、その具体化のための課題、その課題の克服・・・のような段階を踏む、手順を踏む、今やっている練習は、そもそも何をしたいからやっているのか・・・などという日々の練習方法というか、そのようなことは元教員でもあるので、なんとなく感じることはある。

まず、日々のピアノの練習において、自分なりの「達成したい目標」というものが音イメージとしてあるだろうか・・・ということ。指導計画であれば「大目標」となる大きなものになる。この目標が「一応弾けるようにする」ということはないだろうか?それも目標なのだろうが、それは極々小さな「小目標」であり、到達点とすべき「大目標」ではない。ピアノは義務教育ではないので、この「大目標」は自分で作り上げていくものとなるだろう。それは「理想のサウンド」「(無理かもしれないが)具体化したい音世界」ということになるのでは?練習の動機、ピアノを何故弾くのか、その曲をどうして弾きたいと思ったのか・・・などという心の奥底で感じたであろう、根本にあるようなもの・・・

日々の練習、これを本番での演奏という大目標の手段、つまり小目標と考える。ややもすると「弾けるようにする」という小目標スタンスのまま本番・・・という人も多いのではないだろうか?「あそこ、大丈夫かしら?」「○○となってしまったらどうしましょう?」これは日々の小目標の具現化ができるかの心配ではないだろうか?大目標はどこへ???

譜読みの段階から「大目標」を目指す。そもそも「ああ、素敵だな」とか感じたから、その曲を弾きたいと思ったわけで、その大目標の音イメージ、音世界なく、ひたすら小目標の具現化が目標となってしまっては本番で「何故いつも私は・・・」とか「それに比べてあの人は何故?才能?」とか思ってしまう。これって不幸だし、何か違う。そもそも練習は本番を想定して、そこでの目標音世界に向かっていくものでは?本番は練習という小目標の具現化・・・これでは何か逆のような気がする。

一応楽譜(音符)が弾けてから表現を考える・・・これを否定してみたらどうだろう?できるかどうかは別として、具現化したい音世界という大目標が自分の心を動かしたのだったら、それが演奏とか練習というものへの動機となっている、そう考えてみる。もしホロヴィッツの演奏に心動かされ、弾いてみたいということの動機となったのなら、自分の大目標とホロヴィッツは乖離するべきものではないような気がする。「自分なんてまだまだ・・・」実際はそうでも、「ああ、何て素晴らしい」と感じた音世界があるのだったら、それはその人の大目標ではないだろうか?

ピアノと対面する。練習のためにピアノを蓋を開けピアノの前に座る。日々行っていることだ。「あのパッセージ、弾けるようにしなきゃ」「あそこまで譜読みして両手でなんとか通せるようにしなきゃ」・・・小目標だ。でも、いつも「大目標」のための「小目標」という意識は必要だと思う。大目標のなるべき音世界を忘れて音を出している瞬間はないだろうか?その音世界が自分などとはかけ離れた壮大なものであったなら?そこを目指すのは傲慢なのか?いや、素敵なことじゃないか?手が届かないような音世界だからこそ、だからこそピアノを弾いているのでは?

kaz


にほんブログ村


ピアノランキング

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

グリンカ ノクターン「別れ」 

 

グリンカの歌曲は大好き。悩ましいメロディーの曲が多い。ピアノは・・・となると、歌曲をバラキレフが編曲した「ひばり」が有名だろうと思う。でも結構難しいような?黒系の楽譜のような?でも「ひばり」のメロディーは素敵だなと思う。そう、あれをグリンカ節というのだろうか・・・

よく言うレベル分けだと中級程度になるのだろうか?それとも初級?ロシアでは子どもがコンペティションなどでよく演奏しているみたいだ。日本でもそうなのかもしれないが、日本の子どもの動画は少ない。ロシア人の動画が圧倒的に多い印象だ。

メロディーが「グリンカしている」というか・・・

このロシア人の子は若き日(幼き日?)のトリフォノフ。

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング

category: 選曲に困ったら・・・

tb: --   cm: 0

△top