ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

込めるよりも引き出す 2 

 

感情を込める・・・というよりも、魅力として成り立たせている諸要素を引き出していると感じるフィギュアスケートの演技。カタリナ・ヴィットと、あとはこのミシェル・クワンのショートプログラム。他にもあると思うけれど、まず連想したのが、この二人の演技。

音の高低とか、何故この音だけ音価が倍なのだろうとか、この休符はどうしてあるのだろう・・・とか?引き出してみる。

クラシック音楽を聴くのが好きな人って、演奏者が引き出しているものを感じたいのかもしれない。皆が同じ曲を弾く。ラフマニノフのピアノ協奏曲のCDなんて何種類あるのだろう?でも聴く。曲は同じでも「引き出されているもの」が違うから???

kaz




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込めるよりも引き出す 

 

多くの人はアムランの演奏するような曲をノーミスで、高速で弾きたいと思っているわけではないと思う。シフラの編曲ものを、シフラ本人よりも10秒速く弾き切りたいとか、そう願っているわけでもないと思う。

「聴いている人がハッと感じるような、そんな表現力を身につけたい」という想いの方が強いのでは?ただ音を並べましたではなく、音楽的に、表現豊かに・・・

音楽的な表現、ややもすると感情を込めて弾くとか、そちら方面に走ってしまうことはないだろうか?心を込めて・・・とか。

演奏者側がウッフ~ン・・・ではなく、逆に、曲の持つ特色、魅力として感じられる諸要素を感じ取り、引き出す・・・みたいな感覚も必要なのではないだろうか?

音楽が魅力あるものとして成り立っている要素を引き出す・・・実はピアノ弾きよりもフィギュアスケーターの方が長けている例もあるような気がする。ピアノ教育界よりもスケート界の方が、技術と表現との関連性をより深く考え、実践できているような?

表現力のあるスケートの演技、恍惚の表情をして、感情を込めれば芸術点が伸びるなんてスケートのコーチ陣は誰も思っていないはずだ。

往年の名選手と言われるスケーターは、音楽の持つ特色を引き出す能力に長けているように感じる。音楽が細かな動きに変化すれば、細かなステップを踏んだり、長い旋律になれば、滑らかに滑ったりとか。音楽と振り付け、実践(滑り、演技)が完全に一致している。そのような演技って「感情を込めて・・・」というよりは、引き出す、落とさずに、流さずに滑りとして具現化しつくすという印象を持つ。

カタリナ・ヴィット、表現力のある名選手として知られている。彼女の演技の中では、このショートプログラムの演技が最も好き。あの有名な「カルメン」よりも。

ただなんとなく感情を込めて・・・ではないような?音楽の細かな特徴、例えば、ちょっとした休符なども流さずに表現している。音楽の変化と振り付け、動きが完璧に調和している。観ている方は「表現力あるなぁ・・・」と感じる。これってヴィットが感情を込めているからだろうか?ウッフ~ンと心を込めて滑っているからだろうか?それもあるのかもしれないが、何かを込めるというよりは、引き出しているという印象を強く持つ。

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何故ジャズの人って緊張しているように見えないの? 

 

大概本番での演奏って上手くいかない。「う~ん、60パーセントの出来か?」みたいなことは多い。80パーセントの出来なんて今までないんじゃないか?指先に念が入らず、肘あたりでストップしてしまうような感覚に本番では悩まされる。色々と思う。「こんなはずではないのに」みたいな?

「家ではもっときちんと弾けてたのよ~」

「ミスなんて関係ないわ。音楽よ~」と開き直る、本番直前ならまだしも、練習段階でそう思うことは僕の場合はできない。底なしに落ちていくような?

本番で上手くいかなかった時って、曲と最初に出逢った時の感動というのかな、実際の演奏はどうであれ、自分自身納得できないような、悔しさを感じる時って、曲との出逢いの時の想いと完全に分離してしまっている時だと思う。細かなミスに心を奪われ「あっ、やっちゃった」「あっ、ここもダメだし・・・」みたいな?演奏後は日頃の40パーセントの自分がいる・・・

クラシック音楽は再現の芸術とされている。皆が同じ楽譜を弾くわけだし。たまにジャズの演奏を聴くと、演奏しているご本人たちはどうだか分からないのだが、自分たちクラシックの人よりも緊張していないような、あがっていないような印象を受ける。自分の場合を考えてみても、歌曲やギター曲を自分で編曲(耳コピ)して演奏した時は、普通の(ショパンとか?)クラシックの曲を演奏する時のようには緊張しない。演奏後も何故か〇パーセントの出来・・・とか思わない。この場合、何かを「再現」という意識が希薄なのだと思う。内側から出るもの、それに素直に乗せていくみたいな感覚の方が大きい。

緊張、あがり・・・というものと、再現しなければという意識は密接な関係にあるのかもしれない。的中率みたいなものを重視してしまうと、〇パーセントだわ、家ではましだったのよ・・・みたいな?でも実際には決められたものを再現するわけだし・・・

曲との最初の出逢い、その時の想い、心の動き。譜読みを開始した途端、そのようなものは離れてしまって、「弾けるように」「弾けた時の再現が本番でもできるように」とだけなってしまうと苦しくなってしまうのではないか?

クラシック音楽って「再現音楽」なのだろうか?忠実なる再現?

コンポーザー・ピアニスト、このような人たちって、自分で作曲をしたり編曲をしたりする。例えば自身のトランスクリプション作品を演奏する時、彼らは「再現」とか「練習の成果」とか「的中率」「出来栄え〇パーセント」とか考えているのだろうか?

ハイク・メリキャンというピアニストをご存じですか?たしかアルメニアの人だったと思う。来日もしていますね。でも日本でメジャーとは言えないような?彼は自身のトランスクリプション作品を弾いたりしている。

ヘンデル~メリキャン「私を泣かせてください」を演奏している時、演奏者メリキャンの頭の中はどうなっているのだろう?再現?

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チマチマと大雑把、共存してみる・・・ 

 

楽譜を視覚的に読んでいく。「えっと、ドレミ・・・」そして読み取ったドレミを鍵盤で弾く。音が鳴ると嬉しい。憧れの曲が実際に音として再現されていく、興奮のひと時なのではないだろうか?でも実際にはドレミのつもりが、ドレレとかドレファと間違えてしまうことが多い。

部分練習ということになる。多くの場合、ゆっくり練習、リズム練習・・・ということになるのかもしれない。先生から「この部分を丁寧に練習しましょう」などと言われた時、大概は「ゆっくり」「反復」「リズムを変えて」とかになるのかもしれない。

僕の場合、反復とかテンポを落としてゆっくり・・・というよりは、足し算方式のような?説明が非常に難しいパッセージ練習ではある。「ピアニストは語る」(エリス・マック著 音楽之友社)という本の中でアルフレッド・ブレンデルが僕と同じ練習方法を紹介している。僕がブレンデルと同じ・・・という言い方の方がいいかな。

「私がエドワルト・シュトイアマンの教授法で高く買っている点のひとつなのですが、シュトイアマンは生徒にパッセージを速いテンポで練習させるのですが、パッセージを、もっと小さい部分に分けるのです。ある個所をある弾き方で弾きます。次に二番目の部分を弾いて、最初の部分につなげます。ただしテンポはゆるめないで。生徒がそのパッセージを弾き終えるまでこのやり方が続きます」

普通はドレミファソというパッセージを分けずに、ゆっくり弾いたり、リズムを変えたりするのではないだろうか?ドレミファソを細かく分ける。ド、ドレ、ドレミ、ドレミファ・・・のように。音そのものだけではなく、フレーズも同じように足し算方式で加えていく感じだろうか?テンポはゆっくりしないのがコツ。

かなりストイックな練習方法だと自分でも思う。何の曲を練習しているのかは、細部すぎて人は分からないはずだ。まぁ、練習を聴いている人はいないけれど。隙間時間で練習する人は、一度はこのシュトイアマン方式を試みてもいいかもしれない。結構チマチマと辛いです。

このチマチマとしたシュトイアマン方式とは真逆の練習方法、「ワーッと弾き」を最初の譜読みでする。普通は一つ一つの音を読んで、つなげていくのが譜読み。細部を読んで全体にしていくというか?これとは逆に最初に全体をワーッと弾いて、その後にチマチマとシュトイアマン方式に移る。

最初にワーッと・・・パッセージなどは弾けないです。当然。なのでなんちゃって弾きです。でも主要な旋律の流れと、ハーモニーを大雑把に捉えて弾いていく。これは耳コピに近いというよりは、3段譜をピアノで弾く感覚に近い。どこかを端折り、でも曲として成り立っている主要なものは拾って弾いていく。正確に印刷された音を弾いているわけではないので、なんちゃって弾きではあるのかもしれない。

オペラのアリアでも歌曲でもいいけれど、好きな曲を弾いてみる。ピアノ用にアレンジされた楽譜ではなく、声楽用の楽譜。そこにはピアノのパートと歌のパート、3段になっているはずだ。楽譜通りには弾けない。手は3本ないのだから。なので、どこかを適当に(?)省き、省けない音を拾い、ピアノソロの曲のように弾いていく。

これは全体を捉えるという意味で、とてもいい練習になると思う。この感覚でピアノ曲の譜読みする時にも応用してみる。印刷された音を拾う、読む・・・ではなく、全体を読むというか?これだと「一応弾けてから音楽的なことを考える」というよりは、全体構成、全体像をまず捉え、その後そうなるための細部磨きみたいな感覚で練習ができる。細部磨きはシュトイアマン方式に僕の場合はなる。

「イタリア古典歌曲集」みたいな楽譜を買ってくる。厳密にはアリアだけれど、そんなことはどうでもいい。「私を泣かせてください」というヘンデルの曲、シンプルながら3段譜になっているはずだ。これを「ウッフーン」というか、聴いた時の心の動きのまま弾いてみる。ドレミをドレレと弾いてしまっても気にせずに・・・

シュトイアマン方式と歌曲いきなり弾き方式、普通ではないのかもしれないが・・・

kaz




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しばらくぶりのリサイタル告知 

 

詳細は、このブログの「リサイタル 2018」というカテゴリーにある記事に書いてあるので、場所や時間、曲目などはそちらを参照して頂くとして、今年の6月30日にリサイタルを開催します。とてもこじんまりした会場なので、定員数までお客様を募らない予定です。定員いっぱいいっぱいだと、ピアノのすぐ前まで椅子がある状態になるし、キツキツという感じにもなるので、少し余裕を持ちたいと思っています。「このぐらいのお客様だったら客席もいい感じだな」と僕が思う人数を考えると、残席はあと10席程度かな・・・という感じです。

無料の演奏会だし、チケットもないので、当日来られない(忘れてしまう?)方もいるのかなと想定しています。なので、僕の理想定員に達しても、すぐには締め切らないのですが、席に限りがあるというのは事実ではあるので、ここに告知させて頂きました。

年度が替わってから、ブログにも、もう少し告知文章を書いていこうかと考えています。このブログのメールフォームから申し込んで頂くか、直接僕に会う機会のある方は、その旨お知らせ頂ければ大丈夫です。

さて、マリー・アントワネットだけれど、彼女の夫、ルイ16世の祖父、ルイ15世は、自分の子供たちの音楽教師にジョゼフ=二コラ=パンクラス・ロワイエという人を雇った。ルイ16世の父、ルイ・フェルディナンは、この人に音楽を習っていたということになる。つまり、ロワイエという人は、マリー・アントワネットや断頭の露と消えたルイ16世、彼らの親の世代が子どもの頃習っていた先生ということになる。ずばり1700年代の人。

「そうか、マリー・アントワネットの祖父母世代の音楽家というわけだな・・・」

ちょっとロワイエの鍵盤楽器作品を想像してみて頂きたい。どのような作品を残しているのだろう?どんな感じだろう?

1700年代、フランス宮廷音楽家、ヴェルサイユ宮殿、ルイ王朝、マリー・アントワネットのお祖父ちゃん世代・・・

もちろんスタインウェイのピアノなど存在していない時代・・・

重々しいドレスでも踊れるような、ゆったりとした曲?移動は馬車だった。新幹線などない時代。電話もスマホもないしね。なにもかもゆったりしていたのかな?

想像以上に闊達・・・そう感じた人は僕と同じ感想です。

kaz




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