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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

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古びたものが好き 

 

ピアノのレッスンで、先生から「素晴らしいです」と言われるって、結構珍しいのではないかと思う。他人のレッスン風景を見学したことはないのだが、なんとなくそう思う。むろん、指摘はある。でも全体的には絶賛?

それではレッスンにならないのかな?レッスンとは注意されに行くところ?ダメ出しされに行くところ?少なくとも何かしらを指摘されに行くところで、褒められに行くところではないのだろう。

僕が驚異的に達者なわけではないと思う。おそらく、僕の先生は「古びたものが好き」な先生なのだ。だから僕の演奏から「古びたもの」を感じるのだろう。言葉を変えると、現代の主流の演奏は、先生は、あまりお好きでない。主流の演奏とは、アカデミックな場で評価されるような演奏。コンクール向けの演奏というか・・・

レッスン時間に往年の演奏家について、先生と談笑することはない。でも分かるのだ。僕の先生は古びたものが好き。つまり現代のスター演奏家よりは、往年の巨匠の演奏を好む。

幸か不幸か、僕自身コンクールというものに全く興味はないので、僕は、古びたもの好き傾向で困ることはない。

古びたものが好きで、困ることはないけれど、少々寂しく感じることはある。自分は完全にマイノリティなんだと感じる瞬間だろうか?毎週レッスンがあるわけではないし。

音楽雑誌などでの新譜情報、旬の(?)ピアニストのCDには、ほとんど興味がないので、「ワッ!キャッ!」みたいに心躍ることは少ない。演奏会から遠ざかってしまうというのも寂しい。家で古びた録音を聴いていた方が幸せではある。でも「ワッ!キャッ!」みたいなことにも少しは憧れる。楽しそうだし。

サークルの打ち上げなどでの談笑でも孤独感を味わったりする。「アムラン、凄い!」とか、そのような話題に乗れない自分がいる。たしかに凄いが、心の中で「ワッ!キャッ!」という躍動はないのね。アムランではなく、現代のピアニストでも、スティーヴン・ハフだったら「ワッ!キャッ!」となるのだが、ハフを知っている人って少ないみたいだし・・・

なんとなくママ友の中に迷い込んだ独身のキャリアウーマン・・・みたいな心境?

古びたものって、なんだか「こうあるべき」というものから一切フリーであるような気がする。心地いいのだ。純粋に音楽を味わえるというか?

レッスンの時だけではなく、もう少し「ワッ!キャッ!」と思いたい。古びたものが好きな仲間が、もう少し周囲に増えるといいのに。そう思う。

古びたもの・・・ヴァイオリンのエルマンと、ソプラノのポンセルを本日は紹介したい。

kaz






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いつでも夢を 

 

このブログを読む人は、クラシック、それもピアノが好きな人なのだと思うので、作曲家の吉田正と聞いてもピンとこない人も多いのではないかと思う。今日、6月16日は吉田正に国民栄誉賞が授与された日でもある。

1998年の6月10日、吉田正は亡くなっている。その6日後に授与されている。吉田正の多くのヒット曲は、戦後日本の復興の時代にヒットしている。僕の両親の青春時代と重なるのだと思う。

僕が、もう少し早く生まれていたら、セピア色の記憶というものも随分と変わっていたのではないかと思う。僕は70年の万博の記憶はない。幼稚園児だったから、テレビを観ても記憶に残るということはなかった。セピア色の記憶としては、天地真理とか、ピンクレディーとか。半径1キロという生活範囲を超えて、社会というものに足を踏み入れた頃、記憶に残っているのは、70年代後半、80年代の出来事からということになる。もう聖子ちゃんや明菜の時代になってしまうのだ。携帯もパソコンも生活の中に入っていなかった時代だが、そう今と変わらないという印象だ。マクドナルドやセブンイレブンも普通にあったしね。

これは僕だけかもしれないが、両親の一面しか意識してこなかったような気がしている。親なので、子どもから見た親という一面。「教育する人」「叱る人」というイメージだろうか?「働いている人」というイメージも重なる。でも両親の青春時代というものに想いを馳せることはなかった。彼らにも生々しいまでの青春はあったのだと思う。僕らの世代は両親が支えてきた復興という汁を吸って生きてこられた世代なのかなとも・・・

吉田正の当時のヒット曲は、未知のセピア色を想像させてくれる。そこには、いつでも夢が存在していたような・・・

吉田正は、第2次世界大戦中は、シベリアに勾留されたりして大変だったらしい。こう語っている。「私は一度死んだ身だから、だからこそ希望を歌いたい」

両親の青春時代、それはセピア色の「いつでも夢を」・・・

kaz








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「プロになるわけじゃないんだし」とはもう言わない。 

 

「別にプロになるわけじゃないんだし・・・」この言葉は、どうも好きではない。同様に、「趣味なのだからそれなりに楽しければ・・・」この考え方も好きではない。なので、ピアノ教室のコースに、専門コースとか、大人のための趣味コース・・・みたいな分け方があるのも好きではない。どうして分けちゃうのだろう?

サークルなどの練習会、70歳の人が演奏したとする。トツトツとした演奏だったとする。でも音楽やピアノが好きなんだなということが聴き手に伝わってくる演奏だったとする。でも、僕は70歳の人の、その演奏に対して「いいじゃない?別にこれより上手くなろうと頑張らなくたって。今のままでいいじゃない?」とは素直に思えなかったりする。それこそ、プロや音大生ではなくても、心のどこかには「上手くなりたい」という願望は誰にでもあるのではないかと僕は思う。たしかに70歳、トツトツと・・・60歳からピアノを始めました・・・となると、微笑ましいというか、なんとなく好意的には聴く。それはそれで素晴らしい。でも、その人は上達したいんじゃないかなと思うのだ。何歳になろうとも。「これでいいんじゃない?」と上限を切ってしまうのは、ある意味差別なのではないかと。90歳になったら、トツトツではなく、流麗に弾けるかもしれないじゃないか・・・そう思う。何歳だろうと、経験が何年であろうと、憧れるという感情はあるとしたら?

この度リサイタルをする。今月の30日。申し込んで、都合が悪くなりキャンセルした人も、またそうでない人も、ブログのメールフォームから申し込んでくれる際に、一言書いてくれる方が多い。キャンセルの場合は、「実は家族の○○が倒れて・・・」とか、聴きに来てくれる人でも「実は病気を抱えていて、それでもピアノは好きだから弾いていて」みたいなこと。なんだか胸が熱くなる。同時に「そうだよね、弾かずにはいられないよね」とも思う。

プロのように弾きたい?コンクールで入賞するような演奏をしたい?バリバリと難曲を弾きたい?そのような人もいるのかもしれないが、ほとんどの人はそうではないと思う。でも上手くなりたいのだと感じる。大ホールでラフマニノフの3番を弾きたいとか、そのような望みではない。でも上手くはなりたい。プロのように・・・ということとは違うと思う。趣味なので、まぁ、楽しければいいので・・・それとも違う。プロのように、難曲をバリバリと・・・そうではないけれど、楽しいとか、それ以上に望むものがある。上手くなりたい・・・

音楽、演奏とはそのようなものかもしれない。憧れを追い続ける。一生追い続ける。

ここに登場するピアノ弾き、おそらくアマチュアの方たちなのだろうと思う。ピティナのコンペティションに受かるような演奏ではないような気がする。でも彼らが追い求めているのはピティナ弾きではないはずだ。なんとなく、憧れを追い続けていて、そしてこのような演奏になるのかなと思う。

憧れには到達できるのかな?できないのだと正直思う。到達できたら憧れではなくなってしまうから。でも死ぬ時に後悔はしないのではないかと想像する。そこには追い求め続けたという想い、その人の歴史が残るから。

プロになるわけじゃないんだし・・・では何で今日もピアノに向かうのか?

30日のリサイタル、若干お席があります。少しは宣伝しないと・・・

ここで演奏している人たち。僕にとって、なんだか「憧れを追っている先輩たち」という気がする。

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チキン奏法 

 

今、パリ音楽院の教育に関する本を読んでいる。注目したのは「フォルマシオン・ミュジカル」という概念。大雑把に言うと、総合的ソルフェージュ能力ということになるだろうか?視覚的に音符を読んで鍵盤に移していく、まずはそれをして、つっかかったりしないで弾けるようにする。表現とかは、その後・・・みたいな概念とは正反対のような?

スティーヴン・ハフの曲を勉強していて、彼はピアニストであるだけではなく、音楽家であるのだなということを感じている。これは往年のピアニストたちの演奏を聴いても感じることだ。弾きこなす能力というよりは、総合的な魅力?音楽そのものの魅力を感じるというか?

ピアノ仲間に驚かれることがある。それは「なんちゃって弾き」だ。耳コピで「なんちゃって英雄ポロネーズ」とか弾くと、まず驚かれる。記憶を辿ってみると、これは僕の子どもの時からの特技(?)なのだ。教材は「いろおんぷ」なんだけど、聴いた曲を様々な調で弾いたりとか、なんちゃってショパンのワルツを弾いて悦に入ったり。僕の場合、その能力に反比例するかのように読譜力が弱かった。「これはド。じゃあこれは?」「???」みたいな?「なんで分からないの?バカなんじゃない?」みたいな?

たしかに視覚的に読むというのは大切なことだ。ここでつまずくと、先に行けない。練習できないもの。読めないと復讐も予習もできないわけです。サウンドを先に体験してしまうと、きちんと一つ一つの音を視覚的に読んでいくのが、非常に辛くなる。

読譜は大切。これは分かる。教師がなんでも模範演奏をしてしまうと、生徒は努力しなくなる?だから弾かない?耳に依存してしまうから?

日本の音並べ現象、これは音大レベルでの「フォルマシオン・ミュジカル」ということよりも、入門期の読譜ということに原因はないだろうか?僕のような生徒が続出してしまうのも困りものなのだろうが、視覚的に判断して、正しい鍵盤を押して、それなりに曲が進んでいってしまうというのもどうなのだろう?

ピアノを弾かない人は、「おたまじゃくし」を理解して、鍵盤で両手が異なる動きをするということさえ脅威に感じるらしい。たしかに高度な動きなのかもしれないが、「茶碗を片手で持って、もう一方の手で箸を動かすじゃない?」と言いたくなる。そろそろピアノ教育界は、視覚→鍵盤を押す→弾けたら合格・・・みたいな手順を考え直してもいいのではないか?

子どもの頃だったら、合格、つまり先生から丸をもらうということだけでも、ある程度の達成感のようなものはあるのかもしれないが、大人になったらそうではないはずだ。「音並べになってしまう」それは大人再開組のピアノ弾きたちを苦しめている。なんとなくは自分の演奏の問題点を感じることはできる。何を弾いても平坦とか?ではどうしたら・・・

子どもの頃の読譜をそのまま継続していないだろうか?むろん音符は大人だから読める。でも音符ではなく楽譜を読む。大人でも、このことは未経験という人が多く存在しているような気がしてならない。。大人の場合、音並べ演奏の原因を、読譜のまずさということと結びつけないのでは?自分には才能とか、感性が足りないからと勘違いしてしまうことも多そうだ。

視覚的に瞬時に反応して、正しいキーを押す。これだけだったら鶏にもできるらしい。「凄~い!ミスタッチなんかないじゃない?」

視覚的に判断して、ただ正しい音を押す、これができないとピアノは難しいけれど、人間なのだ。鶏と同じでは哀しい。

この弾き方、楽譜の読み方を「チキン奏法」と呼ぶ。我々はチキンではいけない。

kaz




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SF物語  「カールの君臨」 

 

3018年、日本のピアニズムは世界からの羨望の的となっていた。100年ほど前までは、メカニカルには高度なものを持っているが、音楽的表現に関しては平坦な印象を与えるなどと日本のピアニズムは世界から評価されていたのだ。それがどうだろう、今ではメカニカルな面だけではなく、圧倒的な表現力をも日本のピアニストたちは備えているのだ。かつてのピアノ王国はロシアだったが、今では日本ということは世界の常識にさえなった。

当たり前のことだが、メジャーな国際ピアノコンクールでも優勝者は日本人ばかりという現象が起こり、国際問題にさえなった。日本人コンテスタントだけは、国内予選を勝ち抜いた僅かの人しか出場できないようになった。それでもメダルを独占してしまう。

日本の音大には世界各国から留学生がやってくるようになった。中国、韓国の学生たち、かつてはアメリカに留学していたものだが、今は日本。あれほど沢山いた日本人留学生は、海外の音楽院からいなくなってしまった。日本国内ですべて学べてしまうのだから。

日本のピアノ教育にも世界は注目した。「どのような教育が行われているのだろう?」欧米から視察に訪れるのも珍しくはなくなった。

「鎖国をしていた国だ。門外不出の秘密の教材があるのでは???」

日本を変えた教材は存在した。それはチェルニー。100年以上昔から、チェルニーは日本でも盛んに使用されていた。でも目的が違っていたのだ。指を強くする、速く動かせるようにする・・・

2050年頃から流れが変わり始めた。「どうして音並べになってしまうのだろう?」という疑問が起こり始めたのだ。いわゆる「日本人の演奏はタイプライターではない運動」だ。「もう無味乾燥とは言わせない運動」とも呼ばれる。

音符ではなく、楽譜を読み取っていくことの重要性が叫ばれるようになった。どんなにシンプルな楽譜でも、曲として体裁を成しているのであれば、起承転結がある。モチーフがあり、フレーズがある。それを導入段階から指導に取り入れる運動が起こった。「弾けるようになったら表現を考えましょう運動」や、「専門に進むわけではないんだから趣味だったら楽しく運動」は下火になっていった。どの教室でも音符ではなく楽譜を読んでいくことの重要性が説かれ、その読み取った音楽の流れを、具体的に音にしていく「弾き方」の重要性も説かれるようになった。

その際、チェルニーは重宝されたのだ。進度的に、どの段階の生徒にもチェルニーは曲を書いている。比較的単純で分かりやすい音楽だ。音並べでしか譜読みのできなかった生徒が「音楽」を読み始めるようになったのは、チェルニーの音楽がシンプルだったからだ。

「チェルニーを曲としてまとめましょう。どう読んでいく?ではどう具体的に弾く?」このように進んでいった。

初めは小さな変化だったのだ。昔だったらフォルテと書いてあれば、「強く」と運動指示的にただ読んでいた生徒が、「ここは盛り上がって聴こえるように弾くわけね。先生、具体的にどうするんですか?」のように変わっていったのだ。

たしかにチェルニーの音楽は、聴いていて感動を誘う種類の音楽ではなかったが、そのシンプルな音楽が故に、多くの日本人が「読み方」「具体的な弾き方」というものに開眼できたのだ。導入期に「読み方と弾き方」を意識しなければ、音並べになってしまうということをピアノ教育界は認識したのだ。

日本のピアノ教育は、チェルニー、さらにバイエルを再認識した。「この段階で読み方と弾き方を教えないと、将来ショパンを弾いてもラヴェルを弾いても音並べになる」と。

日本はピアノ王国となった。秘密の教材、魔法の教材が新しく出現したわけではなかった。日本ピアノ創成期の頃から存在していた教材を使用していただけだ。ただ使用目的が変わった。それが日本をピアノ王国にした。

(現在のところ、これはフィクションです)

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